■真念寺文書 | ||||
他に「宝暦騒動記」なる冊子も保有されているとのこと。 (「柳田村史」1380頁より) |
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■【源五騒動】その要因 |
(前略)宝暦一揆の要因は、(中略)直接には、連続して数年にわたる凶作に因る飢饉に対する藩の無策と、御用銀の割符、仮銀札の発行などにみられる権力による暴圧、財政経済政策の破滅的失政によるものであった。 宝暦五年(一七五五)四月、家中の諸士困窮の救済と町在通用の便利をはかるとして、藩は銀札の発行にふみきった。銀札と交換に通用銀を回収し、正銀通用を停止するという不換紙幣の発行であるため、当然の結果として、たちまち物価が暴騰し、経済界に一大混乱が発生した。(中略) 明けて宝暦六年(一七五六)は凶作による食糧不足によって村々では餓死者が続出して悲惨を極めた。(中略)藩の対策は全く微温湯的であり、気休めにすぎなかった。このことは、逆に米価を暴騰させたが、悲惨な農民に更に鞭を加えたのは、五九日間を降り続けた長雨と、その間に幾度か来襲した洪水であり、ひしひしと身に迫る凶作の予感におびえる中で、六月中旬には一石の米価が五〇〇目にはねあがり、金沢では打ちこわしが続発した。(中略)飢餓線上に喘ぎながらも、農民に課せられる苛酷な封建的収奪に対する平素の、累代のやるかたない憤懣に併せて、直接には憎悪を伴いながら源五の怠慢を問責する強訴、打ちこわしの大事、奥郡最大の農民一揆に敢然と突入したのである。 (「柳田村史」426-428頁より) |
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■宝暦六年(1756)源五騒動−【真念寺鬼簿帳抄】より | |
(「柳田村史」1394-1395頁より) |
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■宝暦七年(1757)の記録より源五騒動−【真念寺鬼簿帳抄】より | |
(「柳田村史」1395頁より) |
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■騒動の顛末−決起 | |
その人数六・七百人程で、何れも、ばんどり蓑に竹の子笠と言う出で立ちで、手にはとんび・三つくまで・ゆき(斧)・山刀・鎌・かけや・木戸鎗等を持っていた。 (「柳田歴史ものがたり」26頁より) |
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■騒動の顛末−被害 | |
三・四百人ばかりが町中の三・四十軒ばかりの物持ち大家へ踏み込み、米を取り、飯を食べ酒を飲んだ。家々より出した米は一軒より二石、三石、一石五斗、七斗と合計四十石余り、てんでに二升から一斗四・五升あて家へ持ち帰った。 (「柳田歴史ものがたり」26頁より) |
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■源五騒動の原因解明 | |
しかし、これに対し適切な救済策を講じない為政者に対する怒りが才許者である十村に爆発して、源五宅を打ち壊す抗議行動となってあらわれたものと思われる。世に「源五騒動」と記録されているこの事件は明らかに奥能登最大の百姓一揆であるので正しい解明が望まれるものである。 (「柳田歴史ものがたり」26頁より) ※ 宝暦の記念碑 |
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■松は枯れ、杉は今も・・・宝暦の杉 | |
今から二百三十ハ年前の宝暦六年に奥能登最大の百姓一揆がありました。その年は五月、六月に大洪水や台風が続き、大凶作となり飢えで死んでゆく人々が続出しました。従順で忍耐強い農民たちも黙って餓死するか、徒党を組んで食料を掠奪するしか生きる道はありませんでした。ついに七月九日の晩、宇出津の十村源五宅をおそう大事件となりました。その数は七百人から千人程と言われます。 この源五騒動に寺分、五郎左ェ門分からも十一人が参加しました。翌年年貢未納のため寺分からは、肝煎勘十郎、五郎左ェ門分からは肝煎の太郎次郎が金沢の牢へ送られ帰らぬ人となりました。 この二人が入牢する時に、橋のたもとに松と杉の木が植えられたそうです。そして松は枯れてしまい、杉は今も残っています。この杉を宝暦杉といいます。 昭和五十七年八月に「宝暦義民の碑」が木の横に建立されました。長い歴史の流れの中で今も生き続けている宝暦杉は、平成の米騒動をどう見ているのでしょうか。 紙谷 玲子 (「柳田歴史ものがたり」181-182頁より) |
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