■海前寺文書 | ||
一つは寺の祠堂米の借用願で、寺院の祠堂米を収納困難な百姓が借用することはよくあったようであり、当時の税制や、庶民の苦しい生活が伺えます。 もう一点は柳田村源五が宝暦騒動で打ち壊しに合い、寛政十一年に松波に居を移し、松波村源五と改名届けを出したことが記され興味深いと思います。 |
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■天明七年借用申祠堂米之事(切紙) |
(「能都町史」第三巻807頁より) |
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■天明七年借用申祠堂米の借用願について |
寺院の祠堂米を収納困難な百姓が借用を願うと同時にその弐割を利息として支払うことが記されている。天明七年(一七八七)という年代に留意したい。 (「能都町史」第三巻806頁より) (参考)祠堂米 → 祠堂銭について「加越能近世史研究必携」に次のように説明されています。 |
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■享和二年源五居住村改名願(切紙) | |
(「能都町史」第三巻807頁より、右は現存する切紙) |
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■享和二年源五居住村改名願について |
柳田村源五は、後に宇出津村に居住し、宝暦騒動で打こわしに合い、寛政十一年(一七九九)に松波に居住を命ぜられたので、松波村源五と改名願を出した。その内容が先のものである。源五の史料が当寺に遺るのは、当寺が源五の手次寺であったからであろう。 (「能都町史」第三巻806頁より) (参考)「手次」について「小学館大辞典」に次のように説明されています。 「浄土真宗で、檀家からその所属する寺をいう語。本山からの教化を取り次ぐ寺」 本寺は禅宗であるが、当地は一般に浄土真宗の寺が多いため、この語が使われたと考えられます。 |
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■源五騒動について |
銀札と凶作で生活苦に落ち入った庶民は、黙って餓死するか、徒党を組んで食糧を掠奪するか生きる道はなかった。前記の真念寺過去帳に餓死と注記される者が急増し、(中略)このような世上不安な動きは、同年七月九日晩、宇出津の十村源五宅襲撃事件となって当地域にも波及した。(中略) 九日の晩の月の入り頃、観音寺に集合して鬨の声をあげ、相図の火をあげて六、七百人程が、ばんどり・蓑笠を着用し、手にとんび・熊手・ゆきをそれぞれ持って田町口・新町方へ大声を上げて進んで行き、鍛冶橋で勢をつけ橋向いの源五宅へ押寄せた。まず、門・塀を打こわし家の中へ入り、戸障子・唐紙・畳を打ちやぶり、鍋・釜・諸道具や衣類を盗み取った。さらに町へ出て裕福な家三、四十軒ばかり押込み、飯を食べ酒を飲み、米二、三升ずつ盗みとって行った。これが源五騒動のあらましであり、この騒動に参加した者は六、七百人から千人程と史料により多少相違がある。(中略) 事件の中心人物と思われる藤ノ瀬村百姓惣兵衛・同村百姓七左衛門甥市・中斉村百姓甚左衛門・藤波村百姓宗五郎・同村彦五郎の五人は足軽十人指添えで金沢へ連行され、藤瀬村百姓九郎三郎・中斉村百姓甚左衛門せがれ甚太郎・五十里村百姓治平・中斉村百姓助九郎が所預りとなったと荻谷七左衛門は書いているが、七人金沢に牢死と書いている史料もある。(中略)頭振・倅(せがれ)・弟等比較的身の軽い者の参加が多いのは、血気盛んで生活苦が人一倍強かったと考えられるが、村肝煎はそのような人を多く書出し、御高取上げを防止したのかも知れない。 (「能都町史」第五巻290-291頁より) |
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■明暦二年鳳至珠洲小物成銀之事(竪紙) | |
(「能都町史」第三巻806-807頁より) |
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■明暦二年鳳至珠洲小物成銀之事について | |
(「能都町史」第三巻806頁より) (参考) 小物成について「加越能近世史研究必携」に次のように説明されています。 「収納米を物成といったのに対し、自然物から農林水産物・工作物・運輸に課せられた税の総称。生産量が安定し村御印記載のものを定(じょう)小物成、不安定のものを散(ちり)小物成・浮小物成といった。」 |
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