■田代 表家の古文書 | |
他に田代村算用帳など藩政時代の田代地区の耕作状況を知ることができる。特に文化二年と天保八年の持高帳から田代村の持高を比較することができ、当時の農業経営の一端を見ることができる。 (図は「民家検労図」より) |
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■請高新開 |
中後期の新開地は、ふつう、請高新開、極高(きめだか)新開、定免新開の三つに分類されている。請高新開とは前記の新開手続きのうち、検地によって極高する以前の状態にある新開地をいう。また極高新開は、検地極高したのちの新開地であって、図り免によって納所を行う所である。作柄が安定してくると、図り免から定免になるが、これを定免新開という。 さらに、この定免が村免(御印免)と同じになると本高に組み入れられることになった。新開地は、 請高新開 → 極高新開 → 定免新開 → 村御印高組入 という順を経て本高化するのである。この三種の新開地の状況を順にみていくことにしよう。 請高新開という名目で年貢徴収が行われたのは、藩政後期になってからで、以前は検地極高する前に年貢をとることはほとんどなかったものと思われる。藩も徴税に性急になってきたのである。さて、請高新開の例をあげてみよう。 (「内浦町史」第三巻238頁より) |
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■請高新開−「焼山」の例 | |
この二年の年季中にも毛付高(収穫高)があれば申し出、図り免を願い出る。もっとも開き詰めの上は検地をうけて高を決める(極高)。 また古田と新開地との境目について、いささかの問題もないし、見込違いなどと申し出て引免願いなど決していたさないつもりである。変地(水害等による耕地の荒廃)など止むを得ない状況になった時は、御上の御見分を受け、指図どうりにいたすつもりである。ということが書いてある。 (「内浦町史」第三巻239頁より) |
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■請高新開−顛末 |
この願が、前述したように、新田裁許を経て改作所に届けられ、十村共が新開地の見分をし、改作所が聞き届ける。そうすると改作所から新開仮証文が下付され、開発がはじまるのである。 この四百歩新開は予定どおり翌年に開き詰め、文久二年に検地を行い、石高二石六斗三升、図り免二歩ときめられ、極高新開にかわっていった。その時点で新開本証文が下されたのであろう。極高新開所の年貢皆済状が四方山村に何点か残っているが、図り免に応じて定納口米と春秋夫銀を納入した。 (「内浦町史」第三巻239頁より) |
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■文化二年 駒渡村・田代村百姓人々持高帳 | |
(「内浦町史」第二巻202-203頁より) |
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■天保八年 駒渡村・田代村持高井山役相改帳 | |
(「内浦町史」第二巻203-205頁より) |
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■文化・天保年間の田代村の経済推移 |
先の同地の持高帳(文化二年)と相改帳(天保八年)を比較してみると三十余年の短期間の間に、小さな集落の中ではあるが、ずいぶんと持高の変化が生じていることがわかる。 変化のない家 間右衛門・三右衛門・仁左衛門・政右衛門・三郎右衛門(九戸の内五戸) 衰退した家 次郎右衛門 一石二斗五升一合 → 二斗五升一合(一石減) 半兵衛 二石二升七合 → 一石八斗五升(四斗二升減) 隆盛した家 孫助 九石三斗九升一合 → 十石五升八合(六斗六升七合増) 久右衛門 三合→ 五斗三合(五斗増) 右のように、特に次郎右衛門家の衰退と久右衛門家の隆盛は著しい。しかし名前だけの名高がいないことや、切高した家がないことは注目できる。(この時期、隣の駒渡村では三軒が切高している) |
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■用語説明 |
◆請高新開(うけだかしんかい) あらかじめ何石高と高を見積って出願許可を得た新開(不毛の地を開拓して田畑にすること)。天保年中、仕法新開・御仕立(おしたて)新開も請高新開へ入れた。 ◆皆済(かいさい) 年貢を完納すること。皆済すると収納代官または給人から皆済上が発給される。藩政初期は藩主より発給された。 ◆懸作(かけさく) 百姓が自分の住んでいる村以外の他村の高を所持したこと。掛作とも書く。 ◆肝煎(きもいり) 加賀藩では村役人の代表者で頭役であり、一村一人が原則であった。他藩の庄屋にあたる。村内全百姓の推選を受け十村に願い出て改作奉行の認可を受けて就任した。 ◆草高(くさだか) 田地の広狭を地積で呼ばなく、その地より生産する米穀の量で表すこと。 ◆定免(じょうめん) 江戸時代の徴税法の一つで、豊凶にかかわらず毎年の年貢上納率である免が一定していること。 ◆名高(なだか) 百姓が切高をしても二升高を残し、名前だけでも百姓に列することで享和元年(1801)に百姓切高を制限した際にできた。 ◆村御印(むらごいん) 各村の草高・免・小物成の額を記し藩主印を捺した租税徴収令状。 (「加越能近世史研究必携」より) |
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