山下家古文書館


山下家の古文書概観
秋吉村下百姓を百姓に書上につき一札
 当家には寛永期の文書がかなり残されているが、これは十村級の旧家孫左衛門の子孫であったからであろう。
 寛永十六(一六三九)年の「鳳至郡本江村五郎左衛門闕所につき歎願状」は近世村落に残る中世名主の系譜を引く土豪的農民の支配と没落を示す興味深い史料である。
 五郎左衛門は近世に入っても十村を勤めていたが、寛永七年にささいな理由で稲葉左近の配下の多川二郎右衛門の指揮で闕所を申し付けられる。本状はその処分に対する歎願であるが聞き届けられなかった。
 また寛文十一年の下百姓を百姓に書き上げるについての記述から、当時の百姓の二・三男の処遇について考察できる。
(「内浦町史」第三巻より)

寛永十六年 本江村五郎左衛門闕所につき歎願状
本江村闕所につき嘆願状

本江村闕所につき嘆願状
(「内浦町史」第二巻230-231頁より)

五郎左衛門闕所の背景
本江村闕所につき嘆願状
 一般に、近世村落は封建的小農民によって構成される村落であり、こうした村落はほぼ一七世紀後半期には体制的に成立したものと考えられる。加賀藩杜会においては、改作法が近世村落成立の政治的画期であったが、この時点で領内の全村が小農民の構成する村になっていたわけではない。
 中世名主の系譜をひく土豪的農民が、なおも多くの従属民を配下に従え、伝統的な支配力を発揮していた村も少なくなかった。奥能登におけるこうした土豪的農民の村落支配と没落、その過程での小農民自立の様相を、秋吉、山下家文書の中の「寛永一六年、鳳至郡本江村五郎左衛門闕所につき歎願状」によって見ておこう。
 この本江村五郎左衛門は中世名主の系譜を引く大百姓で、中世末期、在地で拮抗していた真言宗の古刹、寺分村平等寺と対抗するため、佐野村から浄土真宗徳宝寺を招請するほどの実力を有していたという。近世に入ってからも十村を勤め、寛永前期には190石余にのぼる「御図帳一本」(元和検地時のものか)の高を所持し、それを多数の下人(従属小農民)に耕作させる土豪的下人雇庸手作経営農民であった。
(「内浦町史」第三巻203頁より)

五郎左衛門闕所の顛末
 この五郎左衛門が寛永七年(1630)十一月一八日稲葉左近の下代多川二郎右衛門の指揮で闕所(財産没収)を申付けられた。この五郎左衛門に対する処分は二段階に分かれる。
 まず、五郎左衛門が寛永二・四両年に用水を見立てて古なぎ畑(焼畑)三、四百歩ばかりを開発したところ、その周囲の小松が枯れたとして寛永六年飯田で籠舎を命ぜられた。この時、多川は五郎左衛門を処刑すべき旨主張したようであるが、忰長三郎が金沢へ赴き、稲葉左近・宮崎蔵人両人(奥郡蔵入地責任者)に赦免を歎願した結果、五郎左衛門は翌七年五月釈放され、一旦は事無きを得たかに見えた。
 ところが、五郎左衛門にとってより決定的な事態がこのあとに待ち受けていた。五郎左衛門は寛永六・七両年の年貢米を六〇石余未進したのであるが、同七年十一月一七日に、半分は銀納、半分は翌八年春までの延納を願い出たところ、翌十八日多川によって闕所を申付けられた。
 五郎左衛門は十村山本(上町野組太郎右衛門)を仲介人として、多川に種々歎願するが、容認されず、家・諸道具没収、追放となり、190石余の田地は、翌八年春、解放された下人及び天坂村・上和住村百姓二名に分与されてしまうのである。   (中略)
 また、この歎願状からは、五郎左衛門分支配下の下人達の動きを直接捉えることはできないが、彼らが五郎左衛門の軛(くびき)から離れ、自立するための運動を積極的に展開していたであろうことは、この時期の奥能登における他の土豪的農民の例からも容易に推測することができる。
(「内浦町史」第三巻203-205頁より)

寛文十一年 秋吉村・下百姓を百姓に書上につき一札
寛文11年秋吉村下百姓を百姓に書上につき一札
(「内浦町史」第二巻233-234頁より)

寛文十一年 秋吉村・下百姓を百姓に書上につき一札/解説
 寛文一一年(1671)、藩が各十村組の百姓数を改め、その持高を記した品々帳の作成を命じた時、秋吉村の徳右衛門・少五郎・彦作が連名で十村松波村又四郎に一通の「覚」を提出した。
 内容は、彼ら三人が高を分出されたのは禁令が出される以前のことで、これまで未登録であったのは届出を怠っていたためであり、今回の品々帳作成にあたって下百姓として帳付けし、以後兄第及び村中に出入のないことを約したものである。
 例は少ないが、三名とも分家或いはそれに近い分出形態で、分出高は徳右衛門・少五郎が上百姓(下百姓を分出した農民)の元高の二分の一、彦作が三分の一と割合が比較的大きい。彼らが下百姓として帳付けされたのは、いずれも高を分与されてから一九〜二八年を経てのことであり、経営的には既に独立していたと思われる。
 といっても、彼ら下百姓は、春・秋の農繁期には上百姓へ手伝いに出なければならず、上百姓に対して幾分の従属性を残していたものと思われるが、百姓の二・三男でこうして独立した農業経営主になれるのは少数であり、たいていの場合は、労働力として自家にとどまるか、他の農業経営に奉公人として雇庸されるしかなかったのである。
 この下百姓は、後述する元禄六年(1693)の切高仕法を機に本百姓となると共に、高の売買が公認されたことにより、二・三男が取高して入百姓となる方向が開かれ、徐々に減少していった。
(「内浦町史」第三巻209-210頁より)

用語説明
改作法 前田利常が慶安四年〜明暦二年にかけて行った農政改革で給人知・蔵入地とも一村平均免と定免法を採用し、口米・夫銀を決定した村御印発給の租税制度の確立。

切高仕法 加賀藩独特の政策で、持高を売ることを切高、買うことを取高と称して田畑の売買を認め(幕府法令で禁止されている)、耕作能力を超える高を持つ百姓にはその高を売らせ、能力のある別の百姓に持たせることによって年貢確保をはかろうとした政策。

闕所 死刑・遠島・追放の刑を受けた者が附加刑として田畑・家屋敷・家財を没収されること。

下百姓 改作奉行に届け出ず内々に百姓二・三男等で高の分与を受けた百姓。元禄六年の高分禁止令で実質的に禁止された。

  田地の広狭を地積で呼ばなく、その地より生産する米穀の量で表すことで草高ともいう。

十村 他藩の大庄屋にあたる加賀藩特有の職名で、最初は十ヵ村を裁許したので、十村となった。農民の最高職で家格・持高・技量等が問われた。

(「加越能近世史研究必携」より)


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