上出家古文書館


上出八郎家文書
犂にて荒起しの図/民家検労図
 当家の「木郎郷村鑑帳」から旧内浦地区の集落別村高、百姓数など知ることができる。また明和八年(1771)の「代り肝煎願書」は村肝煎りの任免の仕組みについて知り得る史料である。
 さらに文政二年(1819)の「頭振面出し願」は小百姓の下に頭振という無高の位があったが、さらにその下に一人前の百姓とは見做されず売買、貸借の対象にされた人々が存在したことを示している。
 加えて、天明三年(1783)の凶作・飢饉もあり、松波村では一八世紀後半から中層農民の激しい持高減少による農民層の両極分解が進み、少数の大高持と圧倒的多数の零細高持へと変化していったことをうかがい知る史料として、天明六年(1786)の「四方山村百姓弟走り人につき申上書」、また文化一五年(1818)の「四方山村民鉢開道心願書」を見ることができる。
(「内浦町史」第二巻・第三巻解説より)

木郎郷村鑑帳解説
 肝煎の役務には扶持米(給米)が支給された。その額は村高の大小に応じた基準が定められていた。安永二年〜同四年(1773〜5)の間のものと思われる「木郎郷村鑑帳」から肝煎給米を表示したのが次の表である。
 延宝四年(1676)に定められた基準(「河合録」三、『藩法集六、続金沢藩』852頁)では、高五〇石迄は一石五斗、百石迄は二石、二百石迄は二石五斗、三百石迄は三石五斗、五百石迄は四石五斗、一千石迄は六石などとなっていたが、表では四石以下の村はなく、全般的に額が大きい。
 基準が設定されてから百年近く経過したこの段階では、先の長百姓達の肝煎役忌避傾向とも相俟って、基準が崩れ規定以上に支給するようになったのではないかと考えられる。また、小木村では銀子で支給されているが、主要産業を漁業においていることの反映であろう。
(「内浦町史」第三巻168頁より)

木郎郷村鑑帳(表示)
木郎郷村鑑帳(表示)
(「内浦町史」第三巻167頁より)

明和八年(1771)四方山村代り肝煎願書
四方山村代肝煎願書
(「内浦町史」第二巻308頁より)

村肝煎の任免について
明和8年四方山村代り肝煎願書
 肝煎は、病気や老令・死亡のため役務を継続し得なくなると、退役願を組裁許十村に提出する。たとえば、市之瀬村肝煎は元治二年(一八六五)正月、十村鈴屋村茂八郎に病身のため御用を務められないとの理由をあげ、退役を願い出ている。このような退役願が、郡奉行・改作奉行に提出されて聞き届けられると、新肝煎の選定が行われた。
 明和八年(一七七一)九月四日付の肝煎願書の場合、病死した四方山村の先肝煎三郎右衛門の代り肝煎の候補として、同村百姓孫右衛門(持高六石八升七合、歳五一)と、三郎右衛門(持高七石八斗弐升四合、歳一四)の二人を書き上げ、十村の裁定に委ねている。孫右衛門は、安永九年(一七八○)持高帳で村内第二位の高持であり、三郎右衛門は、村内第一位の高持で、先肝煎の忰であろう。
 十村共の吟味の結果、代り肝煎は若年ながら三郎右衛門に決まったようである。ふつうは、元治元年の越坂村肝煎交代のごとく、組合頭以下村の高持百姓全員が連名して、代り肝煎一名を推挙し、十村に願い出、十村共の吟味を経て、郡奉行所・改作奉行所に報告されたのち、両奉行より任命された。
(「内浦町史」第三巻168頁より)

寛政十二年(1800)年四方山村次郎右衛門伯父又六頭振出面願書
寛政十二年(1800)年四方山村次郎右衛門伯父又六頭振出面願書
 内浦町に残されている古文書から面の性格に関する具体例をうかがってみると、百姓の伯父を頭振として面を出させるについても村中相談して決めているのがある。(左の古文書がその一つである)
 つまり、頭振の面を出すにも、村内の百姓たちの承認を得る必要があったので、頭振面も、こうして公民権を得ることができたのである。
寛政12年四方山村次郎右衛門伯父又六頭振出面願書

(「内浦町史」第三巻346頁より)

天明六年(1786)四方山村百姓弟走り人につき申上書
天明6年四方山村百姓弟走り人につき申上書
 天明三年(1783)の凶作・飢饉の影響もあり、少数の大高持と圧倒的多数の零細高持へと変化していった。
 その結果、零細な持高の農民の中には、貧困な生活に耐え得ず、走り百姓となり、町場に流入したり、各地を流浪する者などが出てきた。
(「内浦町史」第二巻311-312頁より)

文化十五年(1818)年四方山村村民鉢開道心願書
文化15年四方山村村民鉢開道心願書
 18世紀後半の階層構造の変化の過程で零細な持高の農民の中には、貧困な生活に耐え得ず、鉢開道心(僧体の乞食)になる者もいた。

(「内浦町史」第二巻317-318頁より)


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