■二谷家文書 | ||
現在、コピーが保管されていて、組合頭としての日々の役職を伺い知る史料となっています。 (「能都町史」第五巻516頁より) |
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■享和二年鳳至郡藤波村百姓人別高附帳(袋綴) | ||
(「能都町史」第三巻907-908頁より) |
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■鳳至郡藤波村百姓人別高附帳考察 |
近世において、各地域で百姓の両極分解がみられ、当該史料においてもその傾向は明らかである。以下、能都町史の考察を書き出してみる。 少数の百姓が村高の大半を占めるという例は藤波村でもみられる。同村の享和二年(1802)と安政四年(1857)の持高を比較すると、大高持の甚兵衛が、六十五石余→八十六石余、宗右衛門は六十五石余→七十三石余、甚七郎は四十六石余→五十一石余と大幅な増加を示している。しかもこの三人に二十石以上の残る二人を加えた五人で(全村で二十九人)村高の64.6lを占めているのである。 (「能都町史」第五巻302頁より) |
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■文政五年鈴ヶ嶺村百姓切高証文(続紙) | |
(「能都町史」第三巻908-909頁より) |
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■切高仕法−小農経営の展開へ |
元禄期には加賀藩は、それまで許可していなかった持高の売買を公認した切高仕法を出している(元禄六年)。この切高仕法は加賀藩独特の政策で、持高を売ることを切高、買うことを取高と称して田畑の売買を認め(幕府法令では寛永二十年の田畑永代売買の禁令によって禁止されている)、耕作能力を超える高を持つ百姓にはその高を売らせ、能力のある別の百姓に持たせることによって年貢確保をはかろうとした政策であった。 これによって、資力のある百姓は持高の集積を行ない、また、無高のものでも高を得て百姓化することが可能になる一方、百姓のなかでも持高を失って没落するものもあらわれてきた。しかし、藩では持高の売買を認めても、百姓の頭振への転落を防止するために持高の皆売りを認めず、二升を最低の高として残すように命じていたため(名目のみの高であるから名高と称した)、ほとんど名高のみの百姓も出現してきた。 この切高仕法の意義については種々の見解があるが、持高の売買を公認したことは、前述したような小農経営の展開を促進させる条件になったことは確かであろう。 (「能都町史」第五巻408頁より) |
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■切高仕法−二・三男も高持に |
切高を希望するものは、請人(保証人)を立て、村役人の奥書を添えて十村に願い出る。その場合、定作食米や持山もまた比例配分して切高に添えねばならなかった。それは、その高を耕作する上で必要な諸条件として一体視されていたことによる。 この高に対して持添を希望する者はその旨を十村に願い出、その許可を経て初めて取高できるのであり、その際相応の礼米(代米)を支払わねばならなかった。この礼米は時々の相場で決まったが、ほぼ切高一石につき四〜七石程度であった。 この礼米を支払うにはそれなりの経済力を要し、持添を希望する農民の出ない場合もあった。それはまた、百姓の二、三男や頭振などの無高農民が高持となる機会でもあった。天明五年は、天明三年凶作の直後の年で、その影響によって生じた切出高も、百姓が一統に衰微しているため取高希望者がいなかったものであろう。 こうした願いは特別の支障がない限り許可されたようである。何故なら、藩にとって、高を耕作主のいないままに放置することは、年貢米・銀の減収を意味したからである。手余り地の作損による年貢減収の克服こそ、切高仕法の主要な政策課題であった。 (「内浦町史」第三巻213頁より) |
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■明和三年御高跡職後見許可願(一紙) | |
(「能都町史」第三巻905-906頁より) |
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■文政五年鈴ヶ嶺村百姓切高証文(続紙) | |
本書は年代不明であるが藤波村組合頭甚七郎が老年になったので退役願を十村である藤波村栄太郎へ願出たものである。肝煎の任退役は、改作奉行まで行くが、組合頭は十村どまりである。 (「能都町史」第三巻905、911頁より) |
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