所在地
  石川県鳳珠郡能登町
  字宇出津イ4甲
  白山神社
  電話0768-62-0316
   

白山神社文書館


白山神社文書
藩政期の宇出津絵図
 古くから奉斎されている著名の神社で文応二年(一二六一)の目録に登場。棟札、遺文等数点あるが、村方関係史料も興味深い。
 その一つは天保十三年(一八四二)に羽根、小浦、真脇の網場定書で、網場争論が結着し、その定書を神前に捧げて、神に誓って守るとの意があったもの。
 他の一点は上町野組二十か村の百姓持高を書いたもので、各村の階層が知れる好史料である。

天保十三年羽根・小浦・真脇三カ村網場定書(続紙)
天保13年三カ村網場定書 

(「能都町史」第三巻818-819頁より)

あど絵図-争論を結着
あど絵図
 漁獲や網の位置などをめぐっての争論において、それぞれの網場がどこであるかを絵図として定め、この網場定書で結着し、その定書が白山神社にあることから、神に誓って守るとの意があったものと考えられる。
(「能都町史」第三巻818頁より、図は「内浦町史」第三巻278頁より)

あど絵図−山目・海立
この「あど絵図」には網名・舟本名のほか、その位置や、網間の距離なども記されている。「布浦村沖網春網」を例に挙げると、
 山目、前山は布浦村太郎左衛門大戸口を同村こしき嶋上のかどに合せ、上山は立壁村大向白はけを布浦村京塚の松にあわせ、海立、拾五尋の所の如くである。
 「山目」とは網場所を確定する方法で、陸上の二ヵ所の地点を見通す線を二本設定し、その延長線が海上で交差する位置に網を卸すのである。「海立」とは、水深のことで、海面から海底にいたる網幅を示す。
 山目・海立と網間の規定は、豊・不漁を左右する重要な規定であった。
 (「内浦町史」第三巻280頁より)

あど絵図−配縄網

 ちなみに配縄網(垣網・拝納などと書く)は、魚を導くために磯側へ延びた網をいい、その長さも漁に少なくない影響を与えた。沖側へ延ばすと沖配縄と呼ばれる。
 ところで、貞享の大絵図に記された網場が、それ以降も毎年利用されたわけではない。各網は資金難や不漁などを理由に中止されるかと思えば、条件さえ整えば網再開の願が出される。そのため年により網数は増減したが、長期的にみれば次第に増加してゆくことはいうまでもない。
 そして、在来の網場所の再利用であれ、新しい網場所の開発であれ、網を卸そうとする際には、より有利な条件を望むのは当然であろう。他網との位置関係でも有利な位置を占めたい。そこで、「出入(相論)」が引き起されるのである。

(「内浦町史」第三巻280頁より)


安政四年上町野組村々高面品々帳(袋綴)
安政四年上町野組村々高面品々帳
(「能都町史」第三巻819-829頁より)

農民生活の諸相−百姓面(つら)
 村を構成する近世の農民は、百姓と頭振(幕府領では水呑)に大別されるが、百姓は土地(高)を持ち、年貢・諸役を負担するもの、頭振は土地を持たないものをいった。前述のように、加賀藩では百姓の頭振への転落を防止するために、持高の皆売りを認めず、最低でも二升高(名高)を残すように命じていたから、名高のみの百姓も多かった。
 例えば、宇出津山分村では、安政四年(一八五七)の持高をみると、百姓一五八人(注)のうち一石以上の高を持つもの六四人、一石未満のもの九四人で、その九四人のうち実に四一人までは二升高であった。
 この二升の差はたいしたことがないように思えるが、近世においては百姓と頭振の差は厳然として存在していた。それは百姓の場合、農業経営を維持するため用水や山林などの用益権をもつが、頭振の場合は全然もたないか、山林の利用などに関しては劣った権利しか与えられていなかった。
 また、村の運営を決定する寄合などでも、二升高であっても百姓は一人前の構成者として扱われるが、頭振は一般に一人前の構成者としては扱われないことが多かった。
 それでは、頭振は二升ぐらいの高を買い、百姓になればよいではないかとの疑問も生じるが、実はどの村でも百姓数は制限されていて、百姓としての権利を入手しなければ百姓にはなれなかった。この百姓としての権利を面(地域によっては棟・株ともよんだ)と称した。
(「能都町史」第五巻455-456頁より)

白山神社雑景
収蔵庫の様子 白山神社由緒書
文書棚
上2枚は収蔵庫の様子。右上は由緒書、右下は能登町指定文化財、指定建造物の表示
指定文化財・指定建造物の表示

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