久田家古文書館


久田悦次家文書
製塩の図
 久田家は、屋号を万九郎といい、山分村の村役人を勤めた家である。享保十三(1729)年から安政二(1856)年までの十通の書状が能都町史に掲載されている。現在、史料のコピーが保管されていて、当家の役職柄、当時の年貢の収納制度がよくわかる。
 収納は村単位で行われ、年貢米が完納されると皆斉状が交付される。一村全員が完納しないと交付されず、村全体で連帯責任を負っていたことがわかる。
 また海と塩浜境の杭打ちが願い出されていて、塩浜のために、海の埋め立てが行われていて、湊の利用に支障が生じていたこともわかる。
(「能都町史」第三巻888頁、第五巻517頁より)

文政八年(1825)宇出津山分村皆済状(続紙)
山分村皆済状
 
山分村皆済状/続き
(「能都町史」第三巻891-892頁より)

年貢皆済状とは
 加賀藩では「村御印」によって草高、免、口米、夫銀や小物成が定められており、それによって年貢、小物成が課せられた。年が経るにつれて草高や免に増減が生じたり、時に凶作や政策の変更によっても変化はあったが、貢租の賦課・徴収方法は基本的には同じであった。もっとも村御印が下附される以前、つまり改作法以前の徴租法はちがっている。
 まず定納・口米と夫銀について、年貢皆済状を考察しよう。内浦地域の皆済状によって考えよう。年貢皆済状の書式は、改作法以後でも時期によって少しは変化があるが、基本的には、まず草高、免、定納、口米、夫銀の量が記載され、「右皆済之処如件」などの文言があって、年月日、収納代官名・印判、宛所とつづく。
 そして、この皆済状は一村毎に一紙で、または継紙されて組十村から改作奉行所へ提出し、改作所では役所備付けの引合帳と照合した上で、紙継目裏の中程に印を押し、「表書之通見届者也」という確認の文言に役名(「改作奉行」)と押印をして村へ戻すことになっていた。
 一村分で皆済状が複数になり継紙するのは、これから述べるように村高が二つ以上に分けて扱われる場合があり、春と秋に分割上納される夫銀を収納した代官が交代した時は、先の代官が作成した夫銀皆済状を継紙したのである。
 また、皆済状の最初の部分に記される「草高」は、(中略)高の性質がちがうとか免がちがう場合、収納代官が別人の場合は各々別紙に仕立てられている。新開高も免がちがうので別紙である。
(「内浦町史」第三巻191-192頁より)

文政八年(1825)澗所相滅ニ付塩浜境杭打込願
塩浜境杭打込願

塩浜境杭打込願
 (「能都町史」第三巻890-891頁より)

能都町域の製塩
宇出津棚木塩浜の図
 文政八年(1825)に宇出津村から海と塩浜境に杭打ちが願いだされているが、寛政十二年(1800)にも同様のものが出されているので、能都町史からその解説を書き出してみる。
 これは宇出津村領の棚木の塩浜が次第にせり出して海を埋めていったため澗(湊)の内が狭くなり、上様御城米舟や諸国廻船の出入りに差し障るので、間数を改めて次頁の絵図を作製し、以後海へせりだすようだったらその部分を切り取ること約束をした文書である。この絵図では「ウシツ新開」は前述したように天明六年(1786)から始まった棚木新開で、まだ完成はしていなかった。
 その先の外海側に塩浜が澗の内に向って六枚並んでいて、万九郎・吉兵衛・与十郎・万右衛門・作十郎・宗吉の、六人がそこで製塩を営んでいたことがわかる(塩浜に建っている家は釜屋)。
 この文書に署名しているのは、宇出津・宇出津山分村の肝煎・組合頭・長百姓と宇出津山分村の塩士で、塩士は山分村のものだけであるから、この六人のものは山分村の塩士であることがわかる。山分村の六人のものが宇出津村の浜を借り受けていたのである

 (「能都町史」第三巻890-891頁より)


用語解説
村御印 各村の草高・免・小物成の額を記し藩主印を捺した租税徴収令状。

草高  田地の広さを地積で呼ばず、その地より生産する米穀の量で表すことで高ともいう。

   用地の草高に対して百姓の上納すべき率。免四ッ五分とあれば草高に0.45を乗ずると上納高が算出できる。

口米  年貢米収納事務等担当の代官らの手数料として徴収した米で、給人地は給人に納付された。(中略)寛文十年より定納一石につき一斗一升二合となった。

夫銀  元和三年より定納百石に対し夫銀140目とし、三月と九月に二分して上納したので春夫銀・秋夫銀といわれた。

小物成 収納米を物成といったのに対し、自然物から農林水産物・工作物・運輸にわたり課せられた税の総称。

改作法 前田利常が慶安四年〜明暦二年にかけて行った農地改革で給人地・蔵入地とも一村平均免と定免法を採用し、口米・夫銀を決定した村御印発給の租税制度の確立。

(加越能近世史研究必携より)

ページの先頭へ