■田中正平家文書 | |
村の用水管理に係わり、その築造修理を藩に願い出た記録や、地域の田畑の不安定性や生産力の低さについて苦境を訴えた史料などがある。 さらに製塩についても、当時は海岸の村々だけではなく、清真村など内陸の地域でも行なわれており、同村が塩浜を立壁村に譲り渡したという証文も見ることができ、内陸の村が実際に塩浜を有していたことがわかる。 (内浦町史第二巻・第三巻解説より) |
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■嘉永二年 清真村塩浜立壁村へ譲渡証文 | |
(「内浦町史」第二巻298頁より) |
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■嘉永二年塩浜譲渡証文の背景−内陸村々の退転(廃業) | |
しかもこれらの村々ではかなり早い時期から製塩が行われており、例えば、秋吉村の場合、寛永二〇年(一六四三)には一一七二俵の生産があり、また、正保四年(一六四七)にも一八六九俵の生産があって、むしろ、近世初期の方が製塩が盛んであった。 また、清真村でも前述のように寛文期の塩士方年貢皆済状が残されており、それ以前から製塩が行われていたことがうかがえる。 しかし、これらの村々では、上・河ケ谷村において幕末・明治初期にも製塩が行われている他は、いずれの村々においても途中で退転(廃業)してしまっている。 (「内浦町史」第三巻296頁より) |
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■嘉永二年塩浜譲渡証文の背景−退転の理由 | |
この証文によれば、先年より同村の助右衛門が塩稼ぎを行っていたが、「次第手丈夫にも致し兼ね」るため、在所同名の納得により、「浜地は勿論浜面等相譲り申」すというものであった。 ここでいう「手丈夫にも致し兼ね」るようになったのは、燃料伐り出しの手間や奉公人賃米が高騰しているにもかかわらず、塩概が藩の財政窮乏により高水準に維持されていたからで、しかも、清真村民のだれもが塩稼ぎを引き継がず、立壁村へ譲り渡す結果になったことは、内陸の村々の塩稼ぎを行う条件が非常に悪くなってきていたことをしめしている。 文政一三年の塩概引き下げ願いにおいて、木郎組で四、五ヵ村の村で塩稼ぎが退転したというのは、これらの内陸の村々の塩稼ぎをさすと思われる。このようにして、近世後期になると、内陸の村々の塩稼ぎは次々と退転してしまったのである。 (「内浦町史」第三巻296頁より) |
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■寛政二年大川懸り御田地せき揚用水御普請御入用圖書上申帳 | |
(「すずろ物語復刻版(二)」第23号204頁より) |
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■村の用水管理 | |
九里川尻川より取水して下流の清真・秋吉・九里川尻・立壁の四ヵ村の田地三百石余をかんがいする「せぎ揚用水」である。「四ヶ村用水」とも呼ばれ、もともとは、宮犬村を含めた五ヵ村で、不動寺村領にて和田用水を揚げ、宮犬村の熊野宮下で四ヵ村に分水した。 その後、藩政中期頃、宮犬村領で新しいせぎ揚げ場をつくって宮犬の田地を切り割って用水を通した。そのため四ヵ村は宮犬に毎年江代米を払うのだと伝えている(坂下喜久次氏「近世村落の展開過程」『すずろものがたり』二四号所収)。 寛政二年(1790)の同用水御普請入用図書上によると、新しくできた四ヵ村用水と宮犬領内のせぎ揚場(江口)は、同年六月一三〜一四日の洪水で完全に壊されたこと、そのために一尺四方、長六尺の切石一一二八枚を用いて用水江口・江縁・川縁等の築造修理を計画し、藩費(御加銀)助成を願い出たことなどがわかる。 九里川尻川では、早損の年などに一作限りの堰が設けられ取水かんがいすることもあったようである。また川の流域につくられた新開地のかんがいのため、新堰をつくることもあったようである。そのような川の堰が糞肥などを運ぶ川舟の通行の妨げとなることもあった。 (「内浦町史」第三巻248・249頁より) |
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■村の用水管理の実情 | |
溜池は、山間の谷あいを利用して、谷をえぐり土堰堤を築き、谷水や天水を溜め置くものがほとんどである。 この表は比較的そろっている用水堤十四についてのみ整理したが、このほかにも多数の用水堤があったはずである。ちなみに、今でも二万五千分の一の地形図で当町域をみると、山間の谷の下方に溜池をいくつも見出すことができる。 (「内浦町史」第三巻247頁より) |
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■漁網数の把握 |
網漁の出来・退転についても、その都度届出ることが必要であった。次に掲げるのは立壁村彦十郎の「鰯網卸し願」であるが、その紙背には郡奉行による承認の裏書がみえている。 書付けを以て御願い申し上げ候 このような願書に対して、郡奉行は認可の裏書を与えることで、網一統ごとの出来を知ることができた。以後、退転の届出がない限り、毎年一二匁の網役銀を徴収するわけである。上の網の場合は、嘉永六年(1853)二月に不漁を理由に退転届が出されている。 (「内浦町史」第三巻271頁より) |
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