隅家古文書館


隅家文書
 元禄8年の笹川山割連判定書は百姓間に山割し高、面の比率を定めているが同12年にその山が売られている。年貢の取立てが厳しかったのであろう。明和8年の用水出入納得証文控えは用水の番水が定められている。諸営業に関するものもあり、寛政10年の鍛冶細工願控えや弘化4年の酒造高貸株願写、及び明治3年の油粕商売願がある。
(「柳田村史」より)

元禄八年(1695)笹川村山割連判定書
笹川村山割連判定書
一、私共先に相談しましたように、、高に四歩(四〇%)、面に六歩(六〇%)、古林・新林共に配分しました、人々に当る歩の半分、私共は古林を受取り、其の外はくじ取につかまつるはずに、納得致し候の上切り渡しください、自然くじ歩にしたので、飛山になったり、互いに何かと申しぶんつかまつりそうろうとも、この定書の通り背きません。その為人々は連判して渡します、
以上                    (上掲書面本文の読み)
 (「柳田村史」1323頁より)

元禄八年笹川村山割連判定書−解説
 隅家文書によると、笹川村では元禄八年(1695)に在所の相談の結果、古林・新林共に、高に四歩(四十l)、面に六歩(六〇l)を配分し、人々の当たり歩の半分を二十二名の百姓が古林で受取、その外は籖取りにすることとした。
 籖歩については飛山になり、互いに申し分となっても定め書きにそむかないため二十二名の百姓が連判をして、肝煎仁助、組合頭久蔵・介太郎、長百姓次郎右衛門の四人の村役人に、定め書きの通り山林を伐り渡すことを願った。「元禄十二年 笹川村彦十郎面山売渡し証文」があることから同十二年に山が売られている。
(「柳田歴史ものがたり」138頁より)


※元禄期 元禄六年(1693)切高仕法施行
 元禄期には加賀藩は、それまで許可していなかった持高の売買を公認した切高仕法を出している(元禄六年)。
 この切高仕法は加賀藩独特の政策で、持高を売ることを切高、買うことを取高と称して田畑の売買を認め(幕府法令では寛永二十年の田畑永代売買の禁令によって禁止されている)、耕作能力を超える高を持つ百姓にはその高を売らせ、能力のある別の百姓に持たせることによって年貢確保をはかろうとした政策であった。
 これによって、資力のある百姓は持高の集積を行ない、また、無高のものでも高を得て百姓化することが可能になる一方、百姓のなかで持高を失って没落するものもあらわれてきた。

(「能都町史」第三巻408-409頁より)


明和八年(1772)久亀屋村したたんぼ用水出入納得証文控
用水出入り納得証文1

用水出入り納得証文2

用水出入り納得証文3
(「柳田村史」1343〜1345頁より)

久亀屋村したたんぼ用水出入納得証文から用水について
用水 能登の水田はその多くが山間にあるため、湧水や谷間からの掛流しによって比較的容易なようにみえるが、しかし深い谷川からの取り入れはかなりの上流から江ぶくろを設けてひくとか、あるいは谷の奥行が浅く流れが細いときは溜池をつくらねばならないとか、いろいろと困難さを伴なうことが多かった。
 また能登の村や水田が穀倉地帯の加賀平野などと異なって樹枝状に入り組んだ谷川にそっていることは、数多くの用水路の設定とこの維持に伴なう莫大な経費を必要としたため、農村の貧窮と封建的封鎖性を一段と強めることとなった。
 このように水の問題は農業生産のみでなく村落構造そのものにも大きな影響を与えずにはおかなかったのである。

(「柳田村史」399頁より)


弘化四年(1847)酒造高株願写
酒造高貸株願写
 酒造りと隅家         瀬戸 久雄
 江戸時代四代将軍徳川家綱は明暦三年(一六五七年)、「酒株」を設け、免許制を導入し製造を制限しました。柳田村においても幕末に右のとおりの記録(弘化四年 酒造高貸株願写)がある。
 これは、笹川村仁助(隅家)が宇出津村喜兵衛に酒造高百五拾石高を貸株することを十村に願い出たのである。米一俵(六十キロ)で清酒一石(百八十リットル)が製造されるといわれ、豪商や大百姓でないと米の入手や醸造は困難だった。
 しかし、村方や町方にも消費経済が浸透し、酒造を経営する商人の輩出が見られる。明治四年七月(一八八一年)、太政官布告によって酒株は廃止され、営業免許制を導入し、統制した。
(「柳田歴史ものがたり」233-234頁より)

能登は「酒の国・杜氏どころ」
 能登は「酒の国・杜氏どころ」といわれるほど、古くから酒造業が盛んであり、酒造技術に長じた人々が多くいた。しかし、酒は米を原料としているため、藩から統制を受け、酒造業は株立とし、株数も決まっており、石数(生産量)も制限されていた。
 新たに酒造業を営むためには、他人の持株を譲り受ける必要があった。だが株を入手することは難しかったようで、天保十五年(1844).正院組で酒造業を営む寺家村四平などは、自分達の権利を守るため、引砂村の者が酒造株を求めようとしたことに反対を唱え、入株の差し止めを願い出ている。
 安永八年(1779)の「能登国酒造屋敷并酒造米高帳」(加越能文庫)によると、能登四郡の酒造家数は201軒あり、酒造米高は七〇〇九石七斗一升八合であった。その内訳を見ると、羽咋郡は三四軒で七六四石、鹿島郡は一一五軒で四一六九石九斗六升八合、鳳至郡は三八軒で一六五〇石七斗五升、珠洲郡は一四軒で四二五石となっており、珠洲郡が軒数と共に酒造米高も一番少ないことがわかる。
 ところが、元治元年(1864)「奥郡酒造人々留帳」(『珠洲市史』第三巻)によると、鳳至郡三九株、珠洲郡三一株の合計七〇株、その他休株一〇株が書き上げられている。酒造家の株数が制限されていたものの、鳳至郡では一株、珠洲郡ではなんと一七株も増えていることがわかる。珠洲市域では、三〇軒(内四軒休株)が酒造株を持ち、酒造業を営んでいた。
(「珠洲の歴史」106頁より)

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