■享和二年波並村鰤網場所実録集(袋綴) | ||||
(「能都町史」第三巻938-940頁より) |
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■波並の鰤(ぶり)網 | |
波並村鰤網場所実録で享和二年(1802)とやゝ後年のものであるが、波並村の網は元和年中(1615〜1624)と記録している。 当地域の定置網の上限をどの時代にもとめるかは種々間題もあるが、本書中世史料に掲載されている諸橋稲荷文書に、延徳三年(1491)に過に鰤網の語が見えるところから、波並村の元和年間は充分考えられる年代である。 (「能都町史」第三巻937-938頁より) |
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■天保三年波並村五人組帳(袋綴) | ||||
(「能都町史」第三巻940-941頁より) |
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■波並村の五人組 |
当地域では五人組関係資料が少なかったので貴重である。 (「能都町史」第三巻938頁より抜粋) ◆五人組 村内の五軒で組織し、収納・相互監視・互助などに当たった。延宝二年の能登島では、各組の筆頭に組合頭の名があり、五人組代表が組合頭となっている。 ◆組合頭 与合頭とも書く。村肝煎(むらきもいり)を補佐する役で村の大小により二人から十人近くまでいた。五人組の代表として選ばれた向きもあり、村内で人選の上、組裁許の十村が任命。給銀、給米はなく、御用で動いた時に村萬雑より実費を支給。 (「加越能近世史研究必携」243・241頁より抜粋) 五人組とは (前略)村落構造との関連で、寛永年間に自立過程にあった近世小農民を村落内に封鎖し、年貢収奪を完璧たらしめる点に求める見解が出されている。すなわち、兵農分離による武士階級の城下町集住化に伴う近世農村の治安対策に、年貢納入・耕作労働の連帯責任制の確立、また小農民の土地緊縛などを実現するところに、五人組制度を強力に推進した幕府のねらいがあったとする。 (中略) 五人組の人数は五人あるいは、六人・七人にしたところもあり、十数名を一組にしたのも稀にはある。五人組としての責務は、(中略)年貢そのほかを不納することのないように努めること、もし未進者があれば、組中で弁済することなどであって、相互検察・連帯責任制を明確にしている。 また、五人組の機能としては、公事訴訟の付添い・連判、質地証文・家督相続の保証や立合い、家出人の捜索など村政や日常生活に重要な役割をもっていた。五人組制度を行なっているところでは、五人組帳を作って、組合員の名前を記して領主に提出する。その帳のはじめには農民の守るべき法規が記してあり、これを五人組帳前書と呼んでいる。 (「国史大辞典5」936頁より抜粋) |
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■天保三年(1832)波並村諸事書留(横帳) | |
(加越能近世史研究必携247頁) |
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■塩手米と塩概(しおがえ)-浜方と地方 | |
このように塩手米とは塩生産者に対する前貸し米で、塩士はこれを受け取って、年貢米や飯米、あるいは奉公人賃米・薪代米・製塩道具代などをまかなっていたのである。 このようにして借り受けられた塩手米は、生産された塩で返却されるわけであるが、この時の米と塩の交換比率を塩概(しおがえ(がい))とよび、米一石に付塩何俵概(替)と表わされた。塩概は時代によって異なり、専売制当初の寛永期には十二俵概であったが、寛文期に専売制が復活してからはほぼ十俵概となり、その後時期によって九表概に下ったり、また十表概に戻ったりしながら、天保三年(1832)以降は九俵半概となって幕末まで続いた。 (中 略) このようにして加賀藩の塩専売制は、米の前貸しによって産塩を確保する塩手米制度を基軸に運営されていたが、塩士が一方では百姓として年貢米を納め、再びそれを塩手米として受げ取るのでは運搬や俵装に無駄な手間がかかることになる。 そこで、製塩村々では村高の内の一部の年貢米は藩の御蔵(御収納蔵)には納めず、村方で管理する浜方蔵に納め、それをそのまま塩手米として受け取る制度が設けられていた。これを一般に地方(じかた)高に対して浜方高とよんだ。(中 略) 波並村では四十石が浜方高、二百四十石が地方高であったことが知られている(第三巻941・942頁)。 このようにして塩手米制度は年貢納入とも関係していたわけであるが、さらに海辺や山方の人びとが塩稼ぎに雇われて奉公人賃米を受け取ったり、薪を供給して薪代米を受け取ると、本人の手には渡さず、直接村方で年貢算用帳に計上して年貢として上納されている場合もあり、加賀藩の塩専売制度は租税制度の問題とも深くからんでいたのである。 (「能都町史」第五巻511-513頁より) |
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