■三宅賢一家文書 | |
天正十三(一五八五)年から年代不詳までの十九通の書状があったものの、現在は天正十三年に前田利家が出した献上炭を焼くため奥郡のどの山に入っても良いという許可状が掛け軸にしてある。 (「能都町史」第三巻39頁より) |
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■天正十三年奥郡炭焼申付状(折紙・軸装) | |
この文書の宛所は、「すミやき所へ」となっているが、「所へ」は宛所の敬語であろう。当時、炭焼き共の頭領もなく、十村制もないので、炭焼共全般をさした宛所となった。 ともあれ、利家の御印を戴いた奥郡の炭焼共は、自由に山に出入りでき、炭を焼くことができたので、奥郡の木炭生産量は急増したと考えられる。 (「能都町史」第五巻255頁より) |
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■天正十三年奥郡炭焼申付状(折紙・軸装)写真 | |
藩主前田利家の黒印が捺された申付状 (天正13年からは丸から角印に変更) |
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■天正期の炭生産 | |
このような炭の確保のため、天正十三年(一五八五)には「すミやき所」へ宛て、「いずれの山二ても手寄次第立入炭を焼」くことを認め、炭生産者を保護するとともに、「如相定役炭可上もの也」と、規定の如くに役炭を上納するよう命じている。 (「能都町史」第五巻446頁より) |
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■三宅家の先祖 |
温井景隆と名をつらねているものに三宅小三郎宗隆がいる。土地では彼が宇出津崎山(天呑城とも)の城主であったといい、父の菩提を弔って七尾の竜門寺から徳岩春幡を招いて建立したのが曹洞宗常椿寺であるという。 また真宗覚照寺の境内は、崎山城の武士長谷作左衛門・谷村権兵衛の屋敷であったが、崎山落城後、珠洲郡直郷に逃れた。しかし、こうした由縁で今なお同寺檀家であるという。 天正八年九月一日、長連竜は鹿島半群を信長から扶持され、翌九年には信長の代官として菅屋長頼・前田利家・福富行清が能登の国政をとるにいたった。景隆らは七尾を開城して石動山に退いたが、同年六月、遊佐一族の長連竜に殺されたことを知って越後に難をさけている。 しかし翌十年六月、信長が明智光秀に殺されたことを知り、この機に能登の失地回復をと石動山に立籠ったのであったが、前田利家や佐久間盛政に攻められて戦死した。 (「能都町史」第五巻239頁より) |
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■三宅温故録 | |
堂後屋(どうじりや)は小三郎の子孫で、当家の屋号も堂後屋を名乗る。以下、一部を紹介する。 (参考)「温故」は訓読すると「故(ふるき)を温(たず)ねて」となるそうです。 |
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■三宅温故録−第一章 三宅小三郎宗隆の事跡から |
第一章 三宅小三郎宗隆の事跡から 一、三宅小三郎宗隆伝 天正年間、宇出津の崎山天呑城に在城していた三宅小三郎宗隆は、能登国守護職七尾城主畠山氏の下に執事を務めた三宅備後守の別家で、宗隆は父の菩提を弔はんが為に、宇出津常椿寺を再建し、又主畠山氏の為に上杉氏や温井氏、本家の三宅氏と戦い、又長氏とも各地に於て転戦し、極には天正十年六月二十五・二十六両日、荒山に於て前田氏を救援した尾山城主佐久間盛政と激戦して破れ、石動山落去の時、平加賀守と共に越中敗軍したるが、氷見大将神保氏治に捕へられて、柴田勝家の下に送られたが、遂に二人共越前に切腹したことは諸文献に見ゆるのみならず、宗隆が荒山合戦の際使用した備前長光製の太刀を土産神の白山神社へ、藩政の半ば頃寄進したが、現に同社之を宝物の一つとして保有せり(昭和十二年之を研磨す)。 |
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■澗改役(うるまあらためやく) |
廻船によって移出入される積荷を改め、禁制品の有無を検査するとともに、積荷の数量を調べて規定の口銭を取り立てる役職を澗改役といった。澗改役の所見は承応二年(一六五三)三月鳳至・珠洲郡の主要な湊にニニ人の間役人が任命され(中略)能都町域では宇川(鵜川)に十村清左衛門、宇出津に弥三右衛門がいる。(中略) 宇出津の弥三右衛門は屋号を堂後屋(どうのしろ)といい、もとは武士で、能登守護畠山家の家臣三宅小三郎(宗隆)の子孫と伝えられている。この時期の弥三右衛門の宇出津における地位はよくわからないが、他の間役人の多くは十村や村肝煎であり、弥三右衛門も相当有力な家柄であったものと思われる。(中略) この堂後屋はその他にも、「能登名跡誌」に「船問屋多き中に、堂後と云て船問屋あり。是は天呑城主三宅小三郎子孫にて、天呑明神堂の後ろにありしゆゑ名に呼也」とあるように、船問屋(船宿)を営み、また文化六年(一八○九)には藩の大阪廻米の積船の、宇出津における先後調理役を命じられ(中略)宇出津の湊関係の役職を代表する家柄であったのである。 (「能都町史」第五巻475頁より)
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