■笹川村出村家文書 | |
【牢屋入用に面出し代銀を】 天保九年(一八三八)十二月、笹川村で百姓一名の面出しがあった。 理由は在所の覚助と清松が牢に入り入用がかかってきたが外に才覚の手段がないので面出しの代銀を当てることにした。五升高の切高を受け取り面出しをしたのは彦十郎で、十貫文の代銀を村方に納めることを笹川村中が連判をし、肝煎孫三郎と組合頭藤三郎が奥書をなし、後日に於いて申し分がないと書き彦重郎にわたした。 (「柳田歴史ものがたり」145〜146頁より) |
|
|
■天保九年(1838)笹川百姓面出し証文 | |
(「柳田村史」1311-1312頁より) |
|
|
■「面」と村−生活上不可欠 |
村の構造において「高」とともに、もう一つ重要な意味をもっていたものに「面」の問題があった。つまり「面」は村落社会において正式な村の構成員として一戸前の世帯をはっていくにはぜひ持たねばならないものであった。しかしこの取得は容易でなく、新面出しであろうと旧面を譲り受ける場合であろうと、とにかく村方一統の承認が必要であり、また高額な代償を必要としたのである。 この面には百姓面と頭振面とがあったが、これらの面をもつことによって共有地からの薪の伐り出しや、秣の刈取り、墓地の利用、用水の利用等が認められたのであって、これをもたねば肩身も狭く、また独立した一戸としての生活はほとんど不可能に近かった。 頭振面というのは無高の頭振に与えられた面のことで、この面をもつことにより生活に必要な最低限のものの利用が認められたわけである。したがって村落内で一戸をはって生活していく以上、面の保持は不可欠の要件であった。 このように、面をもつことは共有に関する様々なものについて用益が保障されることであるが、同時に面の所有は当然のことながら共有物の維持や村の諸活動に必要な経費の負担が義務づけられることになる。 ところでこの負担額は、百姓面と頭振面とでは差のあることも多かったようである。たとえば、(「享保十四年分五十里村算用帳」坂本家文書)によれば、同年の肝煎給米の負担が頭振には一人宛弐升を課しているのに対し、百姓面は一人当り四升四合七勺九才というように約二倍の賦課となっている、などはこのことを物語るものである。 しかしその反面、同史料の山役銀五一匁の負担については、内二二匁七分九厘を面五三人(百姓面三九人、頭振面一三人)に対し各四分三厘あて均等に賦課している例もみられるのである。 (「柳田村史」352-357頁より) |
|
■「面」と村−面数の制限 |
上述のように村での生活には面の取得が不可欠であるだけに、分家させて新百姓をつくるときとか、頭振が高を取得して本百姓になるときにはどうしても面を取得する必要があった。この場合、面の譲渡者がいないときは新しく面をつくらねばならず、このことを「面出し」または出面とよんでいた。 しかし新面がふえることは共有地に対する利用者がふえることとなり面の占有価値が相対的に低下することからこれを敬遠する風潮がみられた。このため「面出し」については、村として多額の費用を課するとか、あるいは新面出を禁止する申合せをするなどしてこれをけん制したのである。 全体の面数が制限されているかぎり、分家その他によって一戸前の面出しをしようとする場合には、いきおい従来の面所有者から面を買いとるという形をとらざるを得なくなり、ここに村落民相互間での面売買の問題が起こってくるのである。 この場合売方の理由はそのほとんどが御収納米や御役銀の納入にこと欠き、ほかに支拂いの方便がないため止むなく手放すという場合が多かった。現存する史料の中にこの種のものがかなり散見されるのは面のもつ重要性を物語るものといえよう。 もともと面には名がくっついているのであって、面を売ることは同時に名を売ることになる。したがって仮に頭振甲が乙の百姓面を買って百姓乙になる場合は、甲から乙の名前にかわってしまうわけであり、逆に百姓面を売った乙は従来の名を失って全く別の名にかわることであり、またその持高も失なうことを意味する。名面高を手放す理由は生活困窮による御収納御役銀の差支えにあった。 とにかく面の保有は村の構成員として必須の条件であり、それは背後に経済的な用益権をともなっていただけに決定的な意味をもっていたのである。 (「柳田村史」352〜357頁より) |
|
■元文二年(1737)の切高証文 | |
(「柳田歴史ものがたり」136頁より) |
|
|
■天明六年(1786)の切高証文 | |
(「柳田歴史ものがたり」136頁より) |
|
|
■文政六年(1823)の切高証文 | |
(「柳田歴史ものがたり」137頁より) |
|
|
■嘉永五年(1852)の切高証文 | |
(「柳田歴史ものがたり」137頁より) |
|
|