高宮家古文書館


波並 高宮家文書
鯨髭と杖 鯨の髭
 高宮家は、波並村組合頭をつとめ、舟本でもあったので漁業関係の史料が多い。一点は元禄十年(一六九七)の鵜川村六蔵組の網数書上げで安永四年(一七七五)の書写である。
 他に嘉永六年(一八五三)の人別調理帳には幕末海防等の人夫調理のため作成されたもので当時の海防の様子が伺え興味深い。
 もう一点は明治三年の波並村の網卸方の規則であり、当時の漁法を伺い知ることができる。

元禄十年組下網数書上申帳(袋綴)
元禄10年組下網数書上申帳
 
組下網数書上申帳続

組下網数書上申帳続2


(「能都町史」第三巻915-919頁より)

元禄十年組下網数書上申帳解説
 本書は元禄十年(1697)の鵜川村六蔵組の網数書上げであるが当町域分のみを抄出したところ、鵜川村九統・七見村六統・矢波村十統・波並村十三統の三八統書上げられている。
 この史料は当家の祖先酒屋彦作が安永四年(1775)に書き写したものである。(中略で鵜川村・七見村・矢波村分が省略)
(「能都町史」第三巻914頁より)

網数と鰤網(能都町史から)
鰤網の図
 元禄十年(1697)に、十村組ごとに各村の網数を調べているが、その頃当町域は鵜川村六蔵組・中居村三右衛門組・宇出津村甚兵衛組・松波村太郎右衛門組にわかれていた(第三巻745頁)。 (中 略)
 表からみて、鰤(ぶり)網数が二二で最も多く、元禄年間既に当域は鰤網漁主体の漁業であったことが推定できる。
 この鰤網は、図のような台網で、網一統に四人乗の台舟一艘・七人乗の胴船二艘で、計二一人の漁師と三艘の舟で操業した。この他に番太郎舟といって四人乗の船があり、夜は網の番を致し、昼は前記の舟へ弁当等を運ぶ雑用を行なった。
 網こしらえは七月中旬頃より取りかかり、長さ220目、幅三一目を一口とし170口程かかり、一般分の総費用は、天保九年で四、五百貫文から七、八百貫文程かかっている。
(「能都町史」第五巻495-496頁より)

嘉永六年 人別相調理人夫割符手合組割附帳(長帳)
嘉永6年人別相調理人夫手合組割附帳
 
嘉永6年人別相調理人夫割符手合組割附帳
(「能都町史」第三巻919-920頁より)

嘉永六年 人別相調理人夫割符手合組割附帳解説
 十村の多田六右衛門から人別調理方が要請され、波並村の彦九郎が報告したものである。
 海防方人夫の調達と思われるがその要領は、人夫対象者として
 @年齢は十五〜六十歳まで。
 A村役人・誓詞の役人を省く。
 B女は二人で男一人分として計算し、男女人数を合わせ百人に付八人の割合。
 C人足は国内では一ヶ月交代、国外では二ヶ月交代。人夫の雇賃は一人一日二百文宛。
とされる。波並村では、男193人のうち47人が江戸行となり、残る153人が7人ずつ21組と6人の一組に編成された。
(「能都町史」第五巻309頁より)

海防人夫調達の背景(能都町史から)
 嘉永六年四月、藩主斉泰が能州海岸筋の巡見を行なった。四月四目に金沢を出発し、同二十五日に帰着したが、藩主が能登巡見するのは初めてのことであった。  (中 略)
 藩主直々の巡見で、奥能登の村々は、多少なりとも海防意識を高めたであろう。
 同年六月、ペリー艦隊が浦賀へ来航した。翌七月、算用場奉行は、海防完備のため上下共に節約を徹底するという内容の非常事態宣言を出した。軍備充実のためには「仮令百万之御取箇を宛候而も、不足可仕儀二御座候」(『加賀藩史料』藩末(上))と述べ、危機意識を強めた。そして上下共にということで海防に村人を動員した。海防御手当人夫である。
 人夫たちの仕事は、要所要所の海岸の警備で、もし異国船がやって来た場合には、浜辺に集合し、鎌・鳶口など武器となるようなものをもって防戦にこれ努めるという次第である。
(「能都町史」第五巻307、308頁より)

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