松波百姓一揆館


安政五年木郎組内 松波百姓一揆
在りし日の坂下喜久治氏/H21年春
 何處の村でも昔話の時には必ずはりつけの話が出た。余程世間を震憾させ恐怖させた事件らしい。文献を発見して驚いた。はりつけが二人、獄死したものが数人もいるのだ。
 聞く所によると一揆に関する書状が五六十通あった。しかし近年、或る少数の関係者の手によって焼却されたとのこと、実に惜しい事をしたものだと思う。
 過日、秋吉、中山茂一郎氏より、氏の保存されている貴重な文書を見せていただいた。その中に宗玄村肝煎孫右衛門の控帳の中に松波一揆に関する記事があった。以下中山氏に感謝し、孫右衛門の手記を発表し、代表的な聞書をまとめたい。
                                坂下喜久治
(「すずろ物語復刻版(1)」第10号270頁より)

宗玄村肝煎孫右衛門控帳
孫右衛門控帳
(「すずろ物語復刻版(1)」第10号270頁より)

松波 升谷甚兵衛氏証言(当時77歳)−一揆
現在のじょうやま橋
 吉見屋は当時酒屋ではないが年貢が百石位は入った。飯田へ六、七十石売ったら、松波のものが吉見屋に売らんとおいて呉、今年の米の作りが悪いから、俺達が金を出すからと言って頼んだがこの百姓達の言い分を聞かなんだ。愈々どうしてもいやかと念をおした。どうしても聞かないので、そこで相談を城山に行く橋の上でやった。
 酒をのんであさっての晩やるまいかと言ったがそんながだっちゃかん今夜やるまいかとなって、金だらい、なりものをじゃんじゃんたたいて吉見屋えは入った。入口の戸のさんを二三本折った。主人は土蔵へはいってかくれた。押しかけたものは、仕方なし夜もあけるし引きあげた。
 主人は肝煎にことわった。肝煎は十村に言い金沢表ざたになった。吉見屋はひどいこくそ状を書いてやった。村の者は何べんこそ呼ばれたやら、福田次助も金沢表まで行っていた。次助の祖父が前田様の琴、三味線の師匠していたので頼んで家へかへることが出来た。十名程いたが罪科が決まらん中に死んだものもいた。
(「すずろ物語復刻版(1)」第10号270頁より)

松波 升谷甚兵衛氏証言(当時77歳)−処刑
じょうやま橋の銘版
 次助が来てから言っていた「二人のもんな受けようたがやさかい佛事をしてやるまいか」と。はりつけの所へ着てから肝煎りの願いで二人に何か食べたいものがないか、又いっけの者に会いたくないか、と言ったら、何も食いともない、あいともない、はやらと殺いて呉と言って手を合わしていた。
 見ているものはごうーと泣いた。末期の水ものみたくないかと言ったら、何ものみとないはやく殺して呉南無阿弥陀佛、南無大恩教主釈迦牟尼佛と言った。二人の宗旨は違っていた。
 殺してからさらしてあったらしい。二人の家族のものが夜墓へ持って来た。儀左衛門の弟にとめ、と言うものがいた。死がいを俵の中に入れてかんで来た。
 処刑後十年程たってから藩から記念碑でもたて、供養してやれと言って来た。松波の者はつくった。現在ある。
 逃げるかと思って連判状をかいた。逃げれやかち殺すぜやと言った。誰が言ったか知らない。
(「すずろ物語復刻版(1)」第10号270頁より)

松波 福田床屋さんと富田書店さんの証言
 松波の理髪業福田さんの本家は福壽院と言い畠山氏の筋目のものであった。一揆の時福田しょうけんは前田候の屋敷に、琴、三味線の師匠をしていた。故郷に事件が起り沢山のものが牢につながれ又はりつけの刑になることを聞き、とのさまに助命をたのんだ。
 漸く許しを得てその知らせの早馬が宇出津とか、まで来た時、はりつけが今すんだことを聞き使者はしまったと落胆した。
 連判状は六助新宅の所の橋の上にかいた。円くかいてあったので誰が首謀者かわからなかった。上村笠師の宮から黒だかりであった。
                           松波 福田床屋さん
 吉見屋は米を買いしめて、夜、浜から何べんも積出した。之を水番に行っていた連中が見つけて、さわぎだした。むしろ旗を押し立て、押しかけた、えんの下ヘハザギを入れていさぶって見たり、どんどんたたいてみたりした。富田の若者(二十位か)も一人、牢死したと年寄から聞いている。
                           松波 富田本屋さん
(「すずろ物語復刻版(1)」第10号271頁より)

宮犬 坂下時三郎氏証言
刑場のあった所
 村送りによって宮犬の追分まできた時、故郷松波が近いからかごから出して歩かせて呉と二人が頼んだ。役人は願いを聞いてかごから出してやったが衰弱のため歩けなかった。
 十字にしばられた儀左工門、玄之亟の目かくしの前に槍を十文字にカチカチと音をさせると罪人の胸と腹が大きく波打ち、ぐうっと腹の虫がないたのが遠方より聞えた。八幡様に集って一斗樽のかがみぬいて酒をのみ押しかけた。
 七日の間さらしてあった、死がいに家族のもの泣きさがっていた。少しでもお経の聞えるところへと萬福寺のらんと墓へふせた。処刑後かせだん道は通るものがいなかった。以上のことを子供時孫ばあばあより聞いた。

 はりつけを見るようにと番どうがまわったとか、見物人は珠洲鳳至、一円から集ったとか、とにかく近郷近在前代未聞のことであったらしい。
(「すずろ物語復刻版(1)」第10号272頁より)

坂下喜久治氏のまとめ
 全国を通じ百姓一揆の相手が初期は藩吏である場合が多いが、中期頃から特に封建機構に寄生して農民を搾取する豪農や買占商人にであることが目立っている。
 松波の打こわしは後者の代表的事件であるが、安政五年(一八五八)は土用に至る迄霖雨模様で、凶作の兆見ゆるや吉見屋は米の買占を行い下浦方面の商人へ売るけいやくをしたらしい。之を聞いた百姓達は今年は米のつくりが悪いから是非松波から自分達がお金を出すからよそへ売るなと哀願をなしたが、吉見屋がへんじしない。かくて金沢の卯辰山事件より一ケ月先んじて血気の若者五六十人が封建的服従の夢を破った。
 橋の上に円く連判状を書いたと言うことは計画的であり、犠牲者を出さないと言うことを最初から考えていたものである。おどり込んだものが兇器を持ち、使ったという言いつたえがないこと、吉見屋の被害が微小であること等を考えれば暴動打ちこわしより強議談判が目的であったのかもしれない。
 吉見屋が土藏え入ってかくれたと云うことはけっさくだ。又それで手の下しようのなかった若者達も後のせん議をおそれたものか、あわれであり同情の念を禁じ得ない。
 一揆の結果は封建的強権のもとに十余人の若き生命は刑場に、牢舎にはかなく消えていった。其後吉見屋の買占はどうなったか詳かでない。
(「すずろ物語復刻版(1)」第10号273頁より)

安政五年木郎組内 松波百姓一揆
 封建的貢租の過大による、百姓の辛苦と窮状は老人達の語るのを聞けば、実に言語に絶するものがある。
 封建的強権への服従を美徳に教えこまれて来た百姓達が集団暴動を起すのは余程のことでなければならず、今まで述べたこの一揆のこと等を大正十二年に発行された珠洲郡誌に仕置場(松波紺谷池の側近くにあり、今を去る八十年前に米暴動を起こして巨魁たりし玄之丞、儀左衛門の二名が此處にて磔刑に處せられし場所なりといふ。)と記してあり、如何にもわるもののように書いてあるが私は之を否定する。しかし吉見屋が悪いと言うのでもない。人それぞれ生き方があり善は力であるからである。
 多数の幸福を願いその運動をなし頭取十二人と目され、中でもその責任をとった二名。金沢表で牢死した者もいとしいが、一揆より二年経過した安政七年三月十八日所方にて處刑された儀左衛門、玄之丞を郷土の先人としてその名をつたへたいものである。
 又百姓一揆が明治革命の推進力になったのであるが吾が郷土にも一揆があったと言うことは世に誇るべき史実であると思う。
(「すずろ物語復刻版(1)」第10号273頁より)

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