所在地
  石川県鳳珠郡能登町
  字黒川28-130
  電話0768-76-1551

中谷家古文書館


中谷家文書の発見
中谷家文書の調査/坂下喜久次先生

左は中谷恆夫氏 
右は坂下喜久次氏
 昭和三十二年四月十三日、柳田中学校に職を奉じた筆者(坂下 喜久次)は、『黒川村近し、新助とて公領の庄屋あり、よき百姓也』との能登名跡志の記述を頼りに、残雪の谷あいを柳田から徒歩で、近郷から中谷様と敬称される黒川の中谷恆夫家に古文書を尋ねた。
 上時国家から婿入りされ、敦賀病院長を勤められた御主人と富山県射水郡大門町木倉家から嫁入りされた奥様が快く迎えて下さった。
 『新助とは家の事で、田地は二百石高、三十町歩余あり、一町歩を残して解放した。家屋は三百年位たち母屋は昭和十一年頃屋根替えをした。総建坪五七〇坪、屋敷は二千坪、御膳は二百人前ある。(中略)古文書はあるので蔵の前の雪が消えたら来てほしいと言われた。
 やがて雪が消え、三間に五間に二戸前、大きな鞘に覆われた米蔵と籾蔵は江戸時代のままだった。その二階の長持ちに古文書がぎっしり詰まっていた。古文書を箕(み)で運びながら天領村の史料発見とその膨大さに感動し、これから始める整理と筆写の責任に身が引締まる思いであった。
(「柳田歴史ものがたり」66頁より)

黒川村中谷家の由緒
中谷家の門と塀

門と塀
 江戸時代能登には天領(幕府領)が六二ヶ村あったが黒川もその一村である。その黒川村で応分の司法権・行政権を持つ天領庄屋を代々勤めてきたのが中谷家である。
 同家の古い先祖は不明だが、寛文年間(1661〜1672)に能登奥郡小代官城四郎兵衛の四男蔵松なる者が養子に入ってから家運が盛り上っている。その後も中谷家は新助常清→新助兼清→新助兼恒→亮太郎兼喜→省三郎兼忠→兼晋→恒夫と続き現在当主和夫に及んでいる。この間亮太郎の代には取次役(大庄屋)を中谷家は命ぜられた。
 天保年間の記録によると黒川村は田畑屋敷一三九石余、新田三六石余を数える農村であるが、中谷家は山林数百町歩、田畑八九石余を持高とする豪農であった。
 黒川村にはこの庄屋たる中谷家の補佐役として組頭、惣百姓代がいたが、安政年間の記録では同村には百姓三九軒、水飲十一軒があり、人口は男子169人、女子130人を数えている。
(「中谷家」パンフレットより)

慶応四年 黒川村中谷家先祖由緒一類附帳
中谷家先祖由緒一類附帳

中谷家先祖由緒一類附帳続き

(「柳田村史」1370-1374頁より)

慶応四年(1868)黒川村中谷家先祖由緒一類附帳より
中谷家お茶庭
 この史料は、黒川村(天領)庄屋中谷家の、慶応年間の当主亮太郎は、文政十三年に父祖の代り庄屋となり、庄屋役を勤めるようになった。安政三年には、川島村庄屋を兼務するようになり、同五年には、外国奉行所の海岸巡見に際して御用主附をつとめ、その後、御預万延元年所御用取次格、御預所文久二年御用取次役に就任して、敷浪・熊渕・川田各組の廻り役になった。
 この亮太郎のように一村の庄屋から御預所御用取次役(御扶持人十村役)まで勤めあげるというのは珍しい。
 村を支配する肝煎の任用には、この中谷家のように世襲的に肝煎役につく場合がある。
(「柳田村史」279〜280頁より)


能登天領(幕府直轄領)の設立由来
 利長が慶長十一年に越中にあった土方雄久の領地を、能登へ移したことにはじまる。そのとき一万三千石を、能登各地六二ヵ村に分散して支配させた。ところが、貞享元年土方氏は改易され、その領地は天領支配にかわったのである。
 その後、享保七年に能登天領は幕府から加賀藩へ御預所地として支配を移されたが、いま、この支配の変遷を正徳二年黒川村村鑑より第四五表に掲げる。柳田村では黒川村と河内村が天領であった。
(「柳田村史」283〜284頁より)

中谷家住宅「蔵」(県指定有形文化財)
土蔵/階段
        連綿とよき家風伝えた庄屋
 「新助とて公領の庄屋あり。良き庄屋なり」。江戸中期の紀行文『能登名跡志』に出てくる文である。「よき」には、様々な意味が考えられる。田を見下ろすほどよい場所。四千坪の屋敷に中世の館が残れば、かくもあらんと思わせる堂々とした建物群である。
 確かに、それらのことも重要な要素には違いないが、むしろ連綿と引き継がれてきた家風こそが、よき庄屋であることの最大の理由ではなかろうか。
 近年、当家の蔵の色鮮やかな漆塗りの内壁が評判になったが、現当主は「庄屋の役目は、不作の年や、冬期間、いかに仕事を用意して、人々の生活の安定に心をくだくかにあった。その永年の積み重ねが、蔵の内壁の立派な塗りになって残っている」と語っている。
 この蔵というのは、土蔵(塗蔵、道具蔵、夜具蔵の三種続き)の塗蔵を指す。外部は白漆喰仕上げで、腰はナマコ壁。内部は約一尺ごとに柱が立ち並び、上部は柱一本置きごとに梁がかかり、その梁に根太が渡されている一これらの部材はすべて黒漆塗。
 柱と柱の間梁組みと根太の間には板がはめ込まれ、それらは艶を消した朱塗になっている。床は春慶塗で・梁は中央をやや細くして垂れ下がりの印象を防ぐなど、輪島塗の粋を集めている点と様式美によって、これ以上の物は作り出せないとまでいわれている蔵である。
 階段にも、漆に卵の白みを混ぜ、布に含ませ叩いて仕上げることにより、柔らかく、かつ滑り止めの機能を持たせたクリーム色の漆と、黒、朱の漆が使い分けられており、「烏のとまらない宝蔵」とまで語り伝えられてきた。
(「加賀・能登の住まい」1993年11月30日発行より)

中谷家住宅(県指定有形文化財)
中谷家住宅土間
 建築年代  江戸時代中期
 形態・構造 切妻造・平入・瓦葺・木造二階建
 間口十三間半・奥行き九間の主屋は、切妻造り、平入り、瓦葺き、二階建てで、大正時代に屋根を茅葺きから瓦葺きにしたという。
 厩は十三間に三間。奉行人部屋は六間に二間半。離れは四間に四間半。湯殿兼便所は三間に四間半。土蔵は十二間に三間半。それが立ち並ぶ様は、派手さはないが、外観としては壮大なものである。
 内部も、座敷の天井には裏表に漆が塗られ、その保護をかねて、もう一枚天井が張られていたり、また、湯殿、便所の白壁は白漆喰で、ツバキの葉で磨かれていたりと、いたるところに手間暇がかけられている建物である。
(「加賀・能登の住まい」1993年11月30日発行より)

中谷家の庭
須弥山石
 中谷家の庭に、大変珍しい須弥山石があります。奈良県の飛鳥資料館に収蔵展示している石造遺物に近い物ではないかと思われます。
 庭園は江戸初期の茶人、金森宗和の流儀を受けて造られたと伝えられていますから、邸内を取り巻く屋敷林や池、堀の配置など後背の温和な山林とマッチした風景は大家の画幅を見るにも似て、能登名跡誌の筆者、大田頼資氏が感嘆された事がうなずけます。
(「柳田歴史ものがたり」245頁より)

参考1) 金森宗和(かなもり そうわ)
 宗和の祖父金森長近は信長・秀吉・家康に仕えた武将で、千利休の茶を学んだ。千道安の弟子で宗和流の祖。
参考2) 建築様式
 柳田村古い建築年次の様式として川の下流側に厩を置くことになっているが上図、左側が下流であり、この作法にかなっている。土蔵は厩と共に母屋に直行するのが一般であるが、平行となっていて珍しい。

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