松波城の落城 


九月二十三日
 九月に入って、・・・二十三日の明け六つ(午前六時)頃、突如時の声が挙がった。搦め手の気屈して眠っている折を窺い、城中より熱湯を浴びせ、怯む隙に予て大殿谷に伏せたる松村新右衛門の一隊二十余人、俄かに襲うて敵兵十余名を倒して引揚げた。寄せ手伏兵に気を奪われた間に、兵子に扮した常陸介は兵四五十人を率いて大手門より討って出て、忽ち二十余を斬って城内に退いた。伏兵探索の敵これを聞いて急ぎ引き返さんとする時、後ろの慶光寺山から松波重兵衛の一団が現れて数名を倒した。これを見て敵将筑前は幾多の兵を慶光寺山に向けたが、地の理に詳しい松波方は先の松村、松波の部隊が迂回して坪根方より襲いかかり、城中からも五十余名が加勢して搦め手の敵を衝き、二十人余を討取って一同城内に籠もった。時に常陸介はこの功を称しつつも、いま伏兵城中に入って敵に味方の数を知らしめたのは失敗であると悔やまれたそうである。筑前は城兵の侮り難きをみて和議を申し入れたが、常陸介はこの度は宗家に殉ずる義戦なれば城を枕に討死の覚悟なりと之を拒絶された。

(「能登畠山氏要」の「松波落城」より引用)

九月二十四日・二十五日
 二十四日、名残りに奥方と子女を伴って城中隈なく巡回されたが、聊かも取乱したところなく綺麗に整頓していたと言われる。五つ時(午後八時)一同を大広間に集めて、「この五日間昼となく夜となく敵将長澤の首を討たんと図れども残念ながらその姿だに見かけず、かくなれば如何ほどその兵を倒すも甲斐なし、我が城はなお数十日支え得る設けあれども、見渡せば刈後れの晩稲所々にあり、稲架にも乾稲多く、この上永引くは民の迷惑なり、弓矢八幡に見捨てられし身と諦め、名残りの一盃を酌まん」とて最後の酒宴を催し、七尾熊木より来援の士には軍用金を分与して退散の手配をさせ、その後書院で奥方子女に水盃を賜って、翌二十五日の明け六つ(午前六時)前、搦め手から出立させられた。折柄城兵は大手門側に時の声を挙げ、常陸介が率いる兵二十名が討って出て、敵兵が大手先に集まる隙に奥方たちは無事間道を伝って落ちのびた。・・・
 常陸介は乱戦の中に重傷を負い兵に助けられて城内に入ったが、今はこれまでと覚悟を定め、烏帽子直衣に改めて名香を焚きつつ心静かに自害された。城兵遺骸を白布に包み新莚で巻き、一隊の兵がこれを護って瀧並方の小門から逃れ、船にて苦難薬師へ落ちた。・・・
(「能登畠山氏要」の「松波落城」より引用)

松波城絵図
 
 左端に慶光寺山、北側の点線は義親公奥方の非難した道筋、南よりの点線は義親公の遺体を運び出した道筋。

(「松波畠山家」松波城址保存会刊より引用)

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