所在地
  石川県鳳珠郡能登町字
   不動寺8-200-1
  能登町不動寺公民館内
  電話0768-72-0059
月曜外8:30-17:00
  

馬場宏方言集館


馬場宏方言集
馬場宏氏




 能登町に知る人ぞ知る、熱心な方言研究家がいた。

 その略歴をたどる。
大正 9年 1月 珠洲郡内浦町字行延に出生
昭和10年3月 松波小学校高等科3年卒業、農業従事
昭和23年4月 県立泉ヶ丘高校通信制課程入学
昭和25年1月 方言調査開始
昭和35年   「能登半島先端部の方言分布」刊行
昭和50年 5月 日本方言研究会で研究発表1回目
昭和59年 3月 県立泉ヶ丘高校通信制課程卒業
昭和61年 3月 「能登の方言」号冊出版
昭和61年11月 「北国風雪賞」受賞
平成 3年10月 日本方言研究会で研究発表5回目
   金沢大学にて「能登半島に於ける海磯小動物の方言分布」
平成11年 5月 日本方言研究会で研究発表8回目
   同志社大学にて「能登半島における『アイノカゼ』と『クダリノカゼ』」
平成17年8月23日 85歳で死去。
(文は「すずろ物語」No.9より)

木郎方言考(一)
言語入路図
 馬場 宏さんは珠洲郷土史研究会に入会し、その機関紙「すずろものがたり」9号(昭和27年12月)に最初の投稿をされました。その記事「木郎方言考(一)」で、氏の方言に対する考え方が述べられていますので紹介します。
○はじめに
 この方言考なるものは何等体系を持っていない、全くつれづれなるままに書きつづけて行くものでいわば私の方言手帖である。民俗・言語学に素人な私の解説は獨善的なものが多いと思う。識者のご指導を持つ。
○木郎方言について
 私がここでとりあげた「木郎」なるものは現在の松波町不動寺校下である。ここは次の見地からほぼ一つの方言地域と見做すことができる。即ち
1.圍丘陵にかこまれ交通が不便で交易が少かった。
2.宗教は真言が多く民俗上、古いものが存置する。
3.最近まで部落婚が多かったため他よりの輸入言語が少ない。
4.職業は農が大部分である。
5.文化施設に乏しく教育機関が不備
 しかし乍ら最近の交通の頻繁・都会よりの引上者・出稼ぎによる。遠方婚、義務教育の延長・ラヂオ・新聞の普及によってこの地方の方言は急速に標準語化されつつある。これはよろこばしい現象であるが反面今にしてこの地方々言の蒐集記録を行なわなかったならば民俗学上の貴重な資料も消滅せんとしているのである。
 木郎方言の使用地域は以上の外、木郎川流域(清真・秋吉)字上方面で松波町全体も概して異なったものがないと思う。
(文は「すずろ物語」No.9より)

木郎方言考(七)-朝の挨拶
ハヤイガカ        早いね          老・男   同 少
ハヤイガケ        早いですね       全・男   上 朝仕事
ハヤイネ         早いね          全・男   − 〃 新
オハヨウ          お早う          青・全   同 普
オハヤ(ヨ)ンス       お早いです       男     下 
オハヨーゴジンス     お早う御座います    全・全   上 多
オハヨーゴジンスガケ   お早う御座いますね  婦     全 普
オハヨーゴジンスガネ   お早う御座いますね  婦     全 新
オハヨーゴジンスア(ワ)ケ お早う御座いますわね 婦     全 普
オハヨーゴザンス     お早う御座います   壮・男   上 普
オハヨーゴザンスワネ   お早う御座いますね  婦     全 新
オハヨーゴザンスガケ   お早う御座いますね  婦     全 普
オハヨーゴザンスガネ   お早う御座いますね  婦     全 新
 凡例 全 : 全般    上 : 身上
     青 : 青年層   同 : 同僚 近親者
     壮 : 壮年層   下 : 身下
     老 : 老年層   多 : 多く用いられる
     婦 : 婦人層   普 : 普通
     男 : 主として男 少 : 余り用いられない
     女 : 主として女 新 : 最近用い始めたもの
(文は「すずろ物語」No.17より)

能登方言紹介/内浦タイムスVol.1
「今来ルゾ」
 私の地方(内浦町)で「お母さん早く来て!」という子供に対して「今来ルヅ』という言葉が用いられる。これはちょっと考えると「今行くよ」が正しく「行く」に対して「来る」は反対の言葉である。こんな場合、これを用いない地方の人は奇異に感じるであろう。
 かつて私が軍隊生活中、熊本県出身著がこの用い方をして他県出身者達からその用語は誤りだと攻撃されている場面に出会ったことがある。私はうれしかった。この人と共何戦線を張ったのは勿論である。
 「私」にとっては「行く」でも「相手」にとっては、「来る」ことになるわけで誤りでないこと主張したのだった。
 英語にも丁度この用法がある。
  May I come?(=行ってもいいですか)
  I'm coming right away.(=すぐ行くよ)
 英語の「行く」は「go」であるのに『来る』の「come」を使用するのがこの地方の用語と全く等しいわけである。「これを君にやるよ」を「これを君にクレルワ」と云うのもこの種の用法で、相手の立場に自分がなり代っての、云い替えれば相手の位置を重んじての語法なのである。
(「内浦タイムス」Vol.1より)


馬場さんの死を悼む-北国風雪賞
 昭和27年に珠洲郷土史研究会員となり、「すずろ物語」に「木郎方言考」「能登の方言」そして「季節の方言」などを執筆していただいた馬場宏さんが、去る平成17年8月23日に八十五才で死去されました。
 馬場さんは松波尋常高等小学校卒業後、農業と土地家屋調査士の仕事に従事する傍ら、能登半島先端の珠洲地域から、富山県境の百海、佐々波地域にも及ぶ能登全域の三百以上の集落を廻って方言分布の調査を続けられました。
 昭和61年11月(馬場さん61才のとき)その功績が認められて「北国風雪賞」を受賞されました。その時の感想を次のように述べられています。
 「吹雪の中を歩いたし、蚊に悩みながら野宿もした。その時、こんな古くさい言葉を集めて何になる。「哀れやなアー」と悲しくもなった。天文、地質、民俗学、音楽など独学でいろんなことをやったが、しょせん専門家にはかなわん。しかし「方言」は違う。私の生活の言葉や、だから学会で発表もできたし、学者も私の調査に耳を傾けてくれた。消えてしもう方言も少なくないが、惜しんでも仕方がない。精一杯集めて「能登方言辞典」を作るのが私の目標や。かつてこんなに豊かな言葉の国があった。ということを伝えるためにね」
(「すずろ物語」復刻版Vol.1追録より)

馬場さんの死を悼む-方言調査
 「能登半島の方言分布T」(昭和60年4月)の中で馬場さんは方言調査について、次のように述べられています。
 「私が能登半島の方言分布の調査をはじめたのは、昭和二十八年である。春の日は漁村を尋ね、晩秋には峠を越えて進行した。しかし、何分にも農業の余暇を割いての仕事であるため、遅々としてはかどらなかった。昭和35年12月に、旧南志見村〜鵜川村を結ぶ線以東の地域を「能登半島先端部の方言分布」と題して発表したのであった。次に奥能登全域に及んだのが、昭和53年5月であり、能登250地点の調査を完了したのが59年12月であった。」
 「能登方言考第一集」(平成5年5月)の中では次のように述べられています。
 「私の方言採集暦は40年になる。私はかねてより、方言も貴重な国語資料であり、無形文化財であるとして採集を続けてきた。しかし、能登方言の記録も最早、危機に瀕していることを痛感する。最近は年齢的な限界を感ずるので、一論、一文をこれが最後と考えて、一語でも多くの故里の文化遺産を記録したいと思っている。」
(「すずろ物語」復刻版Vol.1追録より)

馬場さんの死を悼む-生涯学習
 白いズックのカバンを肩にかけ、バイクに乗って調査地を廻るのが馬場さんの標識であった。その50tのバイクももう六台目と云って居られた。バイクのキックをするのは体カも要るので、最近の馬場さんは、何とかして88才の「米寿」までに「能登方言辞典」を完成したいという念願を持っていられたのに、ご逝去されたことを大変残念に思うのです。
 「生涯学習」といって、今日では職を退いてからでも多くの学習の機会が与えられています。馬場さんは、終戦後の昭和23年4月、県立泉丘高校に通信制課程が設けられると同時に入学されました。そして昭和59年3月に卒業されたが、この間36年間通信教育を受講されたのです。馬場さんは「卒業」するのが目的ではなく、若い生徒達と一緒に体育祭、文化祭、修学旅行などの学校行事を楽しんで居られました。
 馬場さんの生涯について、二〜三付記すると、内浦町の文化財専門委員を長く務められ、内浦町を代表して県体の1500m走の選手として十回も出場されました。また内浦町不動寺消防団長も務められたのです。


珠洲郷土史研究会 木下力男



(「すずろ物語」復刻版Vol.1追録より)

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