所在地
  石川県鳳珠郡能登町字
   松波14-69
  中野農機内
  電話0768-72-0155
不定休8:30-18:00
  

中野家古文書館


中野良作家の文書
田植え/民家検労図
 同家は代々、六之丞を名乗り、藩政後期の染物屋関係文書が多く残されている。また、安政三年(一八五六)からの農民経済の発展に関する多くの史料がある。嘉永六年(一八五三)の糞鰯遣口等控から多肥集約農業の成立を見ることができる。
 また漁業相論に関わる史料も見られるが複雑な事情を伴うため藩は折衷案とも言える和順案を示したことがわかる。
 さらに相続と別家に関する史料から、当時(封建社会)が個人ではなく、家単位での成立が伺える。その家は、おのおの独特の名が付けられており、それを面(つら)といつた。ゆえに面というのは家の格式を示すことになり、それが高を持てば百姓面であり、高を持たねば頭振(あたまふり)面となる。
(「内浦町史」第三巻174・281・327・345頁参考、図は「民家検労図」)

安政六・文久二年 小木・越坂・市之瀬三ヵ村あど争議一件(袋綴)
小木・越坂・市之瀬三カ村あど争議

小木・越坂・市之瀬三カ村あど争議

(「内浦町史」第二巻21-22頁より)

小木・越坂・市之瀬三ヵ村あど争議について
九十九湾の図
 安政六年(1859)、小木村と市之瀬・越坂村の間で網相論が起こっている。?末は以下の通り。
 此度、小木村が九十九湾中の字「釜中」に新規の網を卸した。これを認めれば、市之瀬・越坂両村の網の「魚道の指障り」となるので、越坂村から小木村の新統撤去を申し入れた。
 ところが四月五日の朝には、越坂・市之瀬村の若者が「意気込みに乗じ」、小木村の「網浮物など悉く切り流し」てしまった。そこで両者間の話し合いでは収拾できない事態となり、郡奉行への訴訟となるやにみえたが、十村から「得と思慮いたし候様、段々御利解御諭し」をうけた結果、「和順」による解決となる。
 その背後には、小木村には相手二ヵ村の了承なく網を卸した弱みがあり、市之瀬・越坂村にも「常々若き者共へ教諭方不行届き」の落度があることから、仮に訴訟を進めて、論所「釜中」を取揚げられることにでもなれば、却って「双方身の為ならず」との判断があった。
 和順内済の条件は、市ノ瀬・越坂村から小木村へ網代「銀五百目」を弁償する代りに、小木村は今後「釜中」へは網を卸さないというものであった。その結果、三ヵ村の肝煎・組合頭・惣代の連印によって「此末毛頭申し分の筋御座なく候」ことを誓った「済状」が、安政六年四月一三日、十村へ提出されたものである。
 ところが字「釜中」をめぐる争いは、これで一件落着とはならなかったのである。下の済状が作成されて、わずか三年後、文久二年(1862)閏八月に相論は再発している。
(「内浦町史」第三巻281-282頁より)

嘉承六年 糞鰯遣口等控帳から-多肥・集約農業の成立
嘉承6年糞鰯遺口等控帳
 農民が稼ぎに出る暇ができたのは、農業技術の発達によって労働時間に余裕が生じ、他方で貨幣取得が必要になったからであった。
 まず、肥料については、寛文初年には干鰯(ほしか)が領内の一部で使用されていたことがわかるが、一七、一八世紀の交りの頃から次第に干鰯、油粕などの購入肥料が普及してくる。
 この金肥が普及するのは、新田開発が進んで刈敷肥料を供給する草刈場が減少したためであり、また反当収穫量を増やそうと努力したためである。
 つぎに、人間労働の効率を向上させる農具の改良が行われた。かいつまんで言えば、荒起しでは三ツ鍬(備中鍬)が発明されて、牛馬による犂耕でなくても人力だけで耕起できるようになり、したがってまた牛馬飼育の手間が省けるようになった。
(「内浦町史第三巻174頁より)

嘉承六年 糞鰯遣口等控帳から-農具の改良
稲刈り/民家検労図
 稲刈りでは鋸鎌が発明され、脱穀精製過程では、従来は扱(こ)き箸で籾を稲穂からこき落し、木臼で挽き、箕(み)に入れて振って米と籾殻を分け、米とおし、ゆり輪で粉米などをより分けたものであったが、扱き箸に代って千歯扱き、木臼に代って土臼(れんげ臼)、箕に代って唐箕、米とおしに代って千石?(とおし)、ゆり輪に代って米ゆり(ゆり板)が改良・発明された。
 こうして脱穀精製の全過程で能率の高い農具に変ったのであり、とくに女子労働が節約され、農閑期が長くなって余業の暇ができたのである。
 他面で、反収増大のために代掻き、中耕、除草作業を丁寧にするようになり、人力耕起と共に人間労働をより多く投下する作業過程ができて、労働の集約化がすすんだこともわかる。すなわち、農業生産では多肥集約化が進んだのである。
(「内浦町史」第三巻174-175頁から、図は「民家検労図」より)

戌四月 松波村紺屋藍玉買方につき答書
紺屋藍玉買方につき答書
(「内浦町史」第二巻29-30頁より)

紺屋(松波村紺屋藍玉買方につき答書について)
 紺屋とは藍染めを主とする染物屋のことで、文政二年(1819)から六之丞、同一二年から伝兵衛が紺屋を営んでいたとある。このうち、六之丞と伝兵衛は、嘉永三年(1850)に宇出津の小右衛門が能登における藍玉移入の独占を藩に願い出た時に反対を主張しており、また、同文の反対の意見書を長尾村仁左衛門も出しているので、幕末には松波村と長尾村に少なくとも三軒の紺屋があったことがわかる。
 ところで、嘉永三年の宇出津の小右衛門の願書というのは、かれが宿をつとめていた阿波藍玉商人の阿波徳島の万屋元之丞・同藍玉屋太兵衛・大坂の大和屋徳兵衛の三人のほかに、他の商人達が能登へ藍玉を売りさばこうとする動きがあり、そうなれば三人のものが紺屋らに延べ売りにしていた代金が滞る恐れがあるので、三人のもの以外の藍玉の移入を禁止して欲しいと願い出たものである。
 これに対して六之丞らは村方の紺屋では青物を多く染めているため主に葉藍を使い、藍玉は葉藍に少々混ぜて使っているが、藍玉商人が少人数のため互に申し合わせて悪い品を、高い値段で売っており、新しい商人達が進出してくれば、品もよくなり、値段も安くなるだろうから三人の独占的な移入には反対であると主張している。
 この両者の主張に対して藩では、葉藍が主に使われていて藍玉がわずかしか用られていないのなら、新規の商人が入り込まなくともこれまで通りでよいとして、これまでの三人の藍玉商人から買い入れるよう命ずるとともに、一方で、三人の商人に独占権を認めることも拒否した。
 そして、葉藍はできるだけ領内産の葉藍を使用するように命じ、三人の藍玉商人に対しては藍玉の値段をできるだけ安くし、もし、高値で売っているとの情報が聞こえてきたならば、能登への立ち入りを禁じ、他の商人に移入を命ずるとした(金沢市立図書館加越能文庫「御用鑑」一)。
(「内浦町史」第三巻327-328頁より)

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