■坂藹舟(さか あいしゅう) -その生涯 | |
画家になってから一時郷里に帰ったり、また諸国の巡歴の旅に出たりし、金沢・小松はもとより、遠く北海道にまでその足跡を残している。帰郷しては、文人・墨客と交遊を重ね、清談し、揮毫し、痛飲し、心の向くままに悠々余生を楽しく過ごし、昭和二年十一月二十五日、六十四歳を以て生をとじた。 藹舟の人柄はほんとに良い人であったとのこと、そして念仏者であり、その上きちょうめんで毎日欠かさず日記を書き、出納の細かいことまで記していた。 (文は藹舟顕彰会主宰の遺墨展の栞より引用、軸は藹舟顕彰会会長南山氏所蔵) |
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■坂藹舟(さか あいしゅう) -遺墨展 | |
(文は藹舟顕彰会主宰の遺墨展の栞より引用、額は藹舟顕彰会会長南山氏所蔵) |
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■坂藹舟(さか あいしゅう) -遺墨展出品者 | |
恋路・坪根地区/軸13 屏風1 額1 松波地区/軸9 屏風2 上・宮犬地区 /軸2 白丸・河ケ谷地区/軸4 秋吉・清真地区/軸1 額1 珠洲地区/軸1 他2 |
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■坂 寛二(さか かんじ) | |
(文と写真は「石川県立美術館だより」第215号より) |
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■坂坦道(さか たんどう) -その生涯 | |
「恋路物語」と銘打たれたその像は、恋路出身の彫刻家、故坂胆道氏(98年没・享年77歳)が64年に制作したものだ。同年、胆道氏は第7回日展で特選を受賞している。 胆道氏は20年11月6日、恋路に生まれ、松波小学校3年のときに母親と北海道札幌市に移住した。本名は坂青嵐(せいらん)。祖父は日本画家の坂藹舟、父親は油絵画家の坂寛二という芸術家一家であり、胆道氏も3代目として画家の道を進もうとしていた。 しかし、生まれながらに色弱でピンクと水色の区別がつかなかった坦道氏は、絵画では進学できず、彫刻の道に進む。 彫刻家としての坦道氏は、日展入選9回、64年に特選、66年には日展会員になるなど成功を収め、北海道を代表する彫刻家となる。 6年には『丘の上のクラーク』像を制作。坦道氏の作品として最も有名な銅像となった。 (文は町の広報「広報のと」N0.56より) |
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■坂坦道(さか たんどう) -恋路に帰りたい | |
「手紙には『恋路に帰りたい。恋路に帰りたい』と何度も書いてありました。坦道さんはずっと、古里である恋路への強い思いを持っていたのだと思います(田中さん)」 「父の夢は恋路に巨大な観音像をつくることでした。父にとって恋路は原点であり、恋路で過ごした時間が宝物でした。これからのわたしの目標は、たびたび能登に来て、父の彫刻に会うことです」と加藤さん(長女)は話す。 古里恋路を愛し続けた彫刻家坂坦道。その作品は、能登町の財産(平成21年、作品が町に寄贈された)として受け継がれていく。 (文と写真は町の広報「広報のと」N0.56より) |
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■芸術家親子、奥能登に足跡 | |
波静かな海が眼前に広がる。内浦町の恋路海岸。ここにロマンチックな地名ゆかりの伝説にちなむ男女の像が建つ。平成十年五月に死去した日展会員の彫刻家坂坦道の作である。坦道は、札螂市の羊ケ丘展望台にある『丘の上のクラーク像」など数々のモニュメントを残し、同市民芸術賞を受賞した北海道女子短大教授としても知られる。 そして、坦道の父が洋画家の黒田清輝に師事し、白馬海に所属して昭和三年に他界した洋画家坂寛二、その前年に死去した祖父が奥能登を中心に活動した水墨画家坂藹舟である.中さんの父伊助さんは藹舟と親交が深く、よく互いの家を行き来し、作品も好んで蒐集した。37歳の着さで亡くなったため、残る作品が数少ない藹舟の二男寛二の洋画も手に入れ、自宅に飾った。千代さんは「所蔵する作品を見るたび、幼いころの家の様子を思い出します」と記憶の糸を手繰る。中さんの夫、寶正さん(74)もまた、坦道の母よしゐさんと交流があり、依頼に応じて坦道から昭和五十年に贈られたのが能楽師の彫塑像「賀茂」だった。 (文と写真は北国新聞「加越能逸品珍品・お宝探し」掲載より) |
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