所在地
  石川県鳳珠郡能登町字
   松波13-75
  能登町役場内浦庁舎
   1階ロビー
  電話0768-72-2500
土日休館8:30-17:00
  
内浦庁舎4階に坂坦道氏の常設展示室が開設されています。遺作多数。入室無料
坂坦道遺作常設展示室

芸術家坂家三代間


恋路の芸術家三代/坂家
恋路海岸
 能登内浦の恋路海岸は、弁天島を眼前にする景勝地ですが、その一角に「悲恋物語」の像が建てられ、観光客には格好のシャッターポイントとなっています。
 この像の作者が坂坦道で、生家はこのすぐ近くでした。坂家は三代にわたって美術家を輩出し、坦道の祖父は日本画家坂藹舟(あいしゅう)、父は洋画家で坂寛二、そして彫刻家坦道と、なかなかない一族ではないでしょうか。
                (写真は生家近くの恋路海岸)

坂藹舟(さか あいしゅう) -その生涯
坂あいしゅうの軸
 坂藹舟は元冶元年(1864年)珠洲郡恋路の農家に生まれ、名を佐蔵という。若いころ農事をするようにすすめられたが、彼は生来絵を描くことが好きであり、画家で身を立てようと決心していた。たまたま時の南宗画の大家谷口藹山が諸国巡遊の途次、松波の松岡寺に滞在しており、相識る機会を得、藹山氏に師事することになり、京都に出て研錆した。
 画家になってから一時郷里に帰ったり、また諸国の巡歴の旅に出たりし、金沢・小松はもとより、遠く北海道にまでその足跡を残している。帰郷しては、文人・墨客と交遊を重ね、清談し、揮毫し、痛飲し、心の向くままに悠々余生を楽しく過ごし、昭和二年十一月二十五日、六十四歳を以て生をとじた。
 藹舟の人柄はほんとに良い人であったとのこと、そして念仏者であり、その上きちょうめんで毎日欠かさず日記を書き、出納の細かいことまで記していた。
(文は藹舟顕彰会主宰の遺墨展の栞より引用、軸は藹舟顕彰会会長南山氏所蔵)

坂藹舟(さか あいしゅう) -遺墨展
坂あいしゅうの額
 平成13年発行の石川県立美術館だより第215号によると「藹舟については能登を中心にいくつかの作品が知られていますが、まとまって見ることがほとんど知られていないのが現状です。」とありますが平成10年に催された坂藹舟遺墨展においては大変多くの地元愛好家の方々からの出品があり、地域で広く親しまれていることがわかります。
(文は藹舟顕彰会主宰の遺墨展の栞より引用、額は藹舟顕彰会会長南山氏所蔵)

坂藹舟(さか あいしゅう) -遺墨展出品者
出品者分布図
 遺墨展出展者名簿から概要を記します。
 恋路・坪根地区/軸13 屏風1 額1
 松波地区/軸9 屏風2
 上・宮犬地区 /軸2
 白丸・河ケ谷地区/軸4
 秋吉・清真地区/軸1 額1
 珠洲地区/軸1 他2

坂 寛二(さか かんじ)
坂寛二「草花図」
 坂寛二は明治24年内浦町恋路に藹舟の次男として生まれました。父は南画家谷口藹山(あいざん)に師事した画家で、能登を中心に多数の作品が知られています。寛二は15・16歳の頃に上京し、黒田清輝に師事したといわれています。その後、奈良、大阪、金沢と移り、二科会に出品。石川県の金城画壇展では第3回展に出品、また陶芸家との二人展や、グループ展を開いた記録が残っています。 しかし、将来を嘱望された存在であったのですが、惜しくも昭和3年に36歳で早世してしまいました。
(文と写真は「石川県立美術館だより」第215号より)

坂坦道(さか たんどう) -その生涯
恋路物語
 700年以上前の悲恋伝説が残る恋路海岸。その一角に、若い男女の像が寄り添い、語り合うようにして悠久の時を刻んでいる。
 「恋路物語」と銘打たれたその像は、恋路出身の彫刻家、故坂胆道氏(98年没・享年77歳)が64年に制作したものだ。同年、胆道氏は第7回日展で特選を受賞している。
 胆道氏は20年11月6日、恋路に生まれ、松波小学校3年のときに母親と北海道札幌市に移住した。本名は坂青嵐(せいらん)。祖父は日本画家の坂藹舟、父親は油絵画家の坂寛二という芸術家一家であり、胆道氏も3代目として画家の道を進もうとしていた。
 しかし、生まれながらに色弱でピンクと水色の区別がつかなかった坦道氏は、絵画では進学できず、彫刻の道に進む。
彫刻家としての坦道氏は、日展入選9回、64年に特選、66年には日展会員になるなど成功を収め、北海道を代表する彫刻家となる。
 6年には『丘の上のクラーク』像を制作。坦道氏の作品として最も有名な銅像となった。
(文は町の広報「広報のと」N0.56より)

坂坦道(さか たんどう) -恋路に帰りたい
ありし日の坂坦道氏
 坦道氏が亡くなる数年前、田中さん(いとこ、金沢在住)あてに坦道氏から一枚の手紙が届いたという。
 「手紙には『恋路に帰りたい。恋路に帰りたい』と何度も書いてありました。坦道さんはずっと、古里である恋路への強い思いを持っていたのだと思います(田中さん)」
 「父の夢は恋路に巨大な観音像をつくることでした。父にとって恋路は原点であり、恋路で過ごした時間が宝物でした。これからのわたしの目標は、たびたび能登に来て、父の彫刻に会うことです」と加藤さん(長女)は話す。
 古里恋路を愛し続けた彫刻家坂坦道。その作品は、能登町の財産(平成21年、作品が町に寄贈された)として受け継がれていく。
(文と写真は町の広報「広報のと」N0.56より)

芸術家親子、奥能登に足跡
中家の所蔵品
 四季の山水が描かれた水墨画の六曲一双の屏風(高さ174a)、のどかな田園風景の油絵(縦44.5a、横58.5a)、能楽師をテーマにした彫塑像(高さ38a、幅19a)。ジャンルの違う三つの作品が石川県内浦町松波の金物店経営、中千代さんの座敷に並べられた。この三つは異質ながら、同町恋路出身の、幕末から平成の世をつないだ芸術家親子三代の作品なのである。
 波静かな海が眼前に広がる。内浦町の恋路海岸。ここにロマンチックな地名ゆかりの伝説にちなむ男女の像が建つ。平成十年五月に死去した日展会員の彫刻家坂坦道の作である。坦道は、札螂市の羊ケ丘展望台にある『丘の上のクラーク像」など数々のモニュメントを残し、同市民芸術賞を受賞した北海道女子短大教授としても知られる。
 そして、坦道の父が洋画家の黒田清輝に師事し、白馬海に所属して昭和三年に他界した洋画家坂寛二、その前年に死去した祖父が奥能登を中心に活動した水墨画家坂藹舟である.中さんの父伊助さんは藹舟と親交が深く、よく互いの家を行き来し、作品も好んで蒐集した。37歳の着さで亡くなったため、残る作品が数少ない藹舟の二男寛二の洋画も手に入れ、自宅に飾った。千代さんは「所蔵する作品を見るたび、幼いころの家の様子を思い出します」と記憶の糸を手繰る。中さんの夫、寶正さん(74)もまた、坦道の母よしゐさんと交流があり、依頼に応じて坦道から昭和五十年に贈られたのが能楽師の彫塑像「賀茂」だった。
(文と写真は北国新聞「加越能逸品珍品・お宝探し」掲載より)

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