所在地
  石川県鳳珠郡能登町
   字松波
  旧のと鉄道松波駅舎内
  電話0768-72-0085
不定休9:30-11:30
14:30-16:30 入館無料
  電話またはメールにて確認願います。
naka_476@ybb.ne.jp

 当館はボランティアで運営されており、サロン不二の売上利益で維持費を賄っています。
イベント案内−サロン不二では国鉄能登線が運行していた当時の写真コーナを開設しています。
松波城跡庭園跡発掘調査の成果 現地説明会資料の公開 

松波城址情報館


松波城址
のと鉄道廃駅の待合室を改装した展示室
旧のと鉄道松波駅舎活用の情報館








 松波城は文明六(一四七四)年、七尾城三代城主・畠山義統の三男、畠山義智によって築城、天正5(1577)年迄104年間続いたとされています。
 昭和37年「枯山水」庭園跡が発掘され、現在も調査がなされていて、地域住民の心の拠り所として情報公開が求められています。
 旧のと鉄道松波駅には待合室を改装して戦国初期から100余年存在した城祉と畠山氏に関わる情報が展示されています。後ろの山は松波城跡です。
<写真> 左は待合室を利用した展示室、右は情報館全景

畠山氏のルーツ
畠山氏のルーツ
 畠山家の基は桓武平氏でしたが、畠山姓を最初に称した畠山重忠は北条氏により滅亡させられています。足利氏が重忠の妻と足利義純を再婚させ、畠山家は源氏血筋となりました。
 畠山宗家は二本松畠山家となるが室町中期には勢力は衰えてきます。変わって庶流の河内畠山家が管領に任命され、勢いを増すことになります。
 その河内畠山家の庶流として能登畠山家が誕生しています。
 まとめると次の関係となります。
        二本松畠山家→河内畠山家→能登畠山家

畠山氏の能登入国
能登畠山家の系図

 1408年畠山満慶が兄の満家より能登一国を与えられます。満慶は在京大名で、守護代に遊佐氏を能登に派遣します。
 能登国内で守護代に取り入る者と、抵抗勢力が並存するが、後に畠山家臣となる者以外衰退してゆき、畠山氏支配が安定してきます。
 ここに満慶に始まる十二代、百七十年間の畠山氏の能登治世始まることになります。

16世紀の能登の勢力図
16世紀の能登の勢力図

穴水の長家 十六世紀まで将軍直属の武士として半独立。

輪島の温井氏 在地武士の中で早期に畠山家に取り入る。

松波畠山家 能登畠山家が奥能登の勢力確保の為、庶流として創設(1474年)。

松波畠山氏のおこり
松波城古図

 一四七四年、能登畠山第三代当主畠山義統の三男畠山義智が松波に入部し、城を築いたのが始まりと言われています。
・松波畠山氏は能登畠山家の庶家であり、以後6代続くことになります
・百年余に渡り松波一帯14000石を領することになります。
・歴代当主は能登畠山家に忠実に仕えていました。但し松波畠山家六代のいずれも良質な古文書が見えず謎が多いと言えます。
<写真> 松波城古図/金沢市立図書館「河野文庫」所蔵

上杉謙信の能登侵攻
義親公画像/万福寺所蔵
万福寺の山門/城の裏門を移築
 1577(天正5)年7月能登畠山氏の本城が上杉に再包囲されます。六代当主松波義親は手勢を率いて七尾城救援に向うが、多勢に無勢、遊佐続光の内応により七尾城は開城されてしまいます。
 松波義親、神保長親、河野備前、熊木兵部は松波城にとって返しますが、同年9月23日上杉方・長沢光国により松波城は包囲されます。松波城兵300人弱に対し、長沢の部隊は千人近くといわれています。
 9月24日、戦闘開始、松波方散々に敗れ、義親は城で自害します。松波城も兵火で灰燼に帰しますが、義親妻子は越後に逃れます。
  <写真左> 万福寺(能登町松波)に所蔵されている畠山義親公の肖像画。
  <写真右> 同寺の山門で城の裏門を移築したものといわれています。

松波畠山家のその後
義親公墓所/万福寺
義親公奥方/千代女歌碑
 義親が戦死した後、義親の子供達は母と共に縁故を頼り、越後に逃れます。長男連親と次男義重は長連龍に仕えることになります。連親は長姓(連龍に姓と連を与えられる)を義重は松波姓を称します。連親は長連龍に随身し、長与六左衛門連親と名乗るます。弟義重も長氏に仕え、松波氏子孫は長氏に代々仕えることになります。

<参考> 七尾城資料館を建設した畠山一清氏は松波畠山氏の末裔といわれています。
<写真左> 万福寺(能登町松波)にある畠山義親公の墓所。
<写真右> 松波城跡景勝台中段にある義親公奥方の歌碑。
    「浮き沈み、世は水鳥の波の上  不二女」とある。

枯山水遺構の構造・表現方法
城址公園/枯山水遺構
 枯山水遺構は庭園跡の酉側に位置し、現存長7m、最大幅1.3m、最小幅0.3mを測る。10〜30pほどの岩組を点々と布垣し、3〜6pの扁平な円礫を縦に並べ、流水を表現したものであり、流れの強弱には礫の大小による使い分けや、傾きをもたせることによって表現するなど、繊細な趣向がみられる。昭和55年度の調査では、こうした手法が全国的にみても例がなく、大変貴重であるとされた。今年度の能登町教育委員会の調査ではさらに詳細に調査し、枯山水遺構の構造や表現方法を把握した。
 遺構は渦巻部より開始し、池状遺構の斜面まで続くことから、渦巻部は湧水を表現し、湧水から池に流れ込む様相を表していると思われる。その造り方は断ち割りの土層等から判断すると、前回調査した礎石建物と同じ整地層に直に石を配置していると考えられる。
 枯山水遺構に用いられている扁平な円礫については、現在でも松波川上・中流域で採取できる。この円礫を松波川から大きさ・厚さを選択して城内に持ち込み、枯山水を築造したものと推測している。
<写真> 「内浦町史第一巻」から、文は「平成20年度発掘調査現地説明会資料」より
(枯山水遺構の平成22年度調査の成果の現地説明会が開かれました。こちらから

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