所在地
  石川県鳳珠郡能登町字
   松波ロ17-1
  北国新聞建物2階
  電話0768-72-0085
不定休9:30-15:30
  要電話確認

時間旅さねより館


真頼文書の概要
中家の倉庫を改装した展示室
 上戸村真頼家文書は、現在、標題点数100点(実点数119点)が、真頼家と親戚筋にあたる中家に保管されている。
 文書を大別すると、真頼家歴代の御題紙・御召封・由緒書を中心とする真頼家関係文書と、歴代当主役職関係の史料の二つに分けることができる。恐らく、文書を整理された際に、家関係のものを中心にのこされたので、このようなのこり方となったと思える。天正期のものは、初代真頼が初代加賀藩主前田利家から天正11年11月22日に扶持十俵を頂戴した扶持状で、いわゆる天正期扶持百姓家である。当家の由緒を飾る重要な史料である。
 安永期が多いのは、当家の中興の祖と考えてもよい七代真頼の活躍によるものである。当家の歴代が、十村・山廻代官・御塩懸相見人等の役を勤めたので、歴代の名を遺す文書が奥郡各地に散在し、『珠洲市史』・『輪島市史』・『内浦町史』・『能都町史』などの自治体史や『佐渡本間遺文桜井家文書』などでみることができる。なかでも、二代真頼(中門)の名は、輪島市里町の上梶家文書で多見できる。
(文は石川県立図書館「能登珠洲上戸村真頼家文書目録」29頁より)

初代真頼
○印箇所が真頼屋敷跡
 初代真頼が利家の扶持状を受けた理由を由緒書で次のように述べている。畠山・上杉合戦の際、上杉勢の黒滝長が能登奥郡に進攻したので、畠山勢が珠洲郡鹿野浜で迎え討ったが畠山側が敗戦した。戦勝した黒滝長は、鳳至郡穴水に関を構え、字出津に棚木城を拵らえ奥能登を支配した。これに対して、長連龍が勢力を盛り返し、穴水の関留を攻め落とし、棚木城の黒滝長も撃退したが、この時に初代真頼の先祖が長連龍の御供をして諸事御用を勤めた。さらに、天正十年に前田利家が石動山で越後勢と合戦した際にも利家軍に従軍し、利家の奥能登進攻にも御用を勤めたためとある。由緒書に述べる程の功績を利家は特に認めてなく、能登領有の際に、その支配の円滑化をはかったものであろう。実際、この時期の合戦は、能登の守護畠山氏と上杉氏で、七尾城の陥落、これに対して、繊田信長の勢カを借りた長連龍の反撃と、勝者も目まぐるしく変わった。この時、奥能登の土豪は、いずれに与したら有利かを見定めるのは困難であり、合戦の流れに沿った者も多かったのであろう。扶持状を拝領した土豪は、この合戦の途中に利家に追従したものであり、初代真頼もその一人であったのであろう。
(文は石川県立図書館「能登珠洲上戸村真頼家文書目録」30〜31頁より)

二〜四代真頼
正面の傾斜地に屋敷があったとされる
 二代真頼は、初代真頼の弟で中門と名乗っていた。元和七年十年二十三日に初代が死亡し、御扶持の田地七石五斗が在所へ返され退転していたが、親が真頼家再興を願い、翌八年二月江戸へ行き、弟中門の相続を願出てそれが認められた。この時、郡奉行もこの件に介在し、当時、百姓家の相続状況の知れる史料である。真頼家を嗣いだ中門は、真頼に改名せず、中門を名乗っていたが、由緒書には真頼とある。
 三代真頼は、慶安三年に利常より十俵の扶持を貰い、上戸組十村を勤めるが、承応二年に創始された十村代官となり、堂ケ谷・法住寺・弘国の三村の収納に当たる。さらに、承応四年の珠洲郡年貢皆済状の宛所は上戸村真頼とあり、承応二・三年の珠洲郡年貢米を三代真頼がまとめて上納しており、珠洲郡の収納代官の中心的役割を果たしていた。さらに、寛文七〜九年には、鹿野村恒方とともに羽咋・鹿島両郡の収納代官、寛文十一年珠洲郡、寛文十二年羽咋・能登郡の収納代官、となっている。
 四代は、延宝三年に扶持安堵、山廻代・御塩懸相見役は勤めるが十村役を勤めていない。ところが延宝四・七年の珠洲郡年貢皆済状の宛所に名を連ねており、収納代官を勤めていたことがわかる。
(文は石川県立図書館「能登珠洲上戸村真頼家文書目録」31〜32頁より)

五〜十代真頼
安永二年二千石代官申付状

 五代真頼は、元禄十四年に御扶持を仰付けられたが、頂戴せず正徳五年病死とある。その間十三年もあり扶持状が貰えなかったのは病弱か若年で御用が勤められなかったためと思える。このため、五代に男子はなく、柳田村助太郎次男を養子として六代目を嗣いでいる。
 六代は、元文四年に山廻役・御塩懸相見役を勤め、宝暦元年に病死をする。
 七代真頼(平六)は、安永二年に御扶持人十村を勤め活躍する。この頃は、真頼家は隆盛で、伜十吉が安永五年に奥郡新田才許となり、七代の弟と推定される彦八も安永四年に千石代官・山廻役を勤める。
 九代真頼は、珠洲郡寺家村百姓徳右衛門の伜で、十代真頼も同家から養子、に来ている。
 十代は、天保六年に九代の養子となり、同年金左衛門を真頼と改名、同年十二月に斉泰の扶持安堵状を貰い、明治二年若山組当分才許となり、幕末の激動期に活躍する。また、枠の吉次郎も安政五年に山廻役・御塩懸相見役を勤める。文化十二年生まれの十代真頼は、還暦を迎えた明治八年に能登国十二区副区長を差免され、第一線から退いている。
(文は石川県立図書館「能登珠洲上戸村真頼家文書目録」32頁より)

真頼の持高

持高(石)

寛政13年

14.298

文政年中

12.889

天保12年

6.165

安政6年

5.665

万延元年

5.665

慶応2年

5.858

明治5年

1.300

 真頼家の初期の持高は不明であるが、表でみるように、寛政十三年の持高は一四石二斗九升八合で、明治五年には僅か一石三斗に減少している。この持高には扶持高も含まれており、安政四年の持高は五石六斗六升五合で、このうち五石が扶持高であるから実際の持高は僅か六斗六升五合であり、意外に少ない。
 他の天正期扶持百姓をみると、狩野村恒方は文政年中三ニ石六斗六升五合、仁江村友貞は延宝七年二九石三斗四升五合、享和元年一六石七斗でそこそこの持高であるが、若山村延武は、安政四年の御扶持高七石五斗で持高は僅か五斗であった。このように、持高の少ない者が十村・山廻役を勤められたのは、やはり家の格式であったのであろう。
(文は石川県立図書館「能登珠洲上戸村真頼家文書目録」32頁より)

北方村の持高
屋敷跡の南西側に広がる御印田だった所
 北方村は、寛文の村御印高は四五五石で、丈政年中は四六九石三斗三升七合となっている。この内、懸作百姓十二人で五四石五斗二升四合の懸作高であるから、残りの四一四石八斗一升三合を自村百姓九十八人で耕作しており、平均一人四石二斗三升三合である。この時の真頼家は、一二石余であるから、村平均の約三倍の高持ちで、村の六番目であった。
 ところが北方村の高異動は文政以降大へんなものである。最高の高持ち源右衛門は安定しているが、二番目の藤右衛門は、二五石二斗八升七合が安政六年に六斗六升四合と激減し、元治元年に皆切高をして頭振となっている。持高三、四位の又右衛門・六郎右衛門も二〇石以上の高持ちだが、いずれも皆切高をして頭振りとなっている。
 これに対し、九石余の助右衛門は安政六年に四五石余、二石余の与作が慶応二年に四七石余の大高持となっているように、高変動の著しい村であった。
 このような現象は、塩士村の特徴なのか、幕末の当地域の一般的な動きか留意すべきであるが、真頼家もこの波にまき込まれ、文政から天保にかけて持高が半減したのであろう。
(文は石川県立図書館「能登珠洲上戸村真頼家文書目録」33頁より)

天正11年 前田利家扶持状
天正11年 前田利家扶持状
天正11年11月22日前田利家黒印状
上戸村之内以拾俵令扶持候、惣高之内を以可取之者也
天正十一
    十一月廿二日 利家(印)
        上戸
          さねより
 上戸村(珠洲市上戸町)の真頼に、10俵の扶持を与えたもの。天正10年(1582)の石動山合戦で、利家に協力したためと伝承されるが宛名に敬語がなく、7月の功績の評価は低かったと考えられています。

真頼文書用語解説
天正11年利家扶持状包紙
頭振(あたまふり)  高を持たない農民で天領では水呑といった。町へ出て商業活動で財をなした者もいる。
御塩懸相見人(おしおかけあいみにん)  毎月三回、五の日に生産塩の品質、桝目を検査して塩蔵に収納することの担当者で戸村の準役で山廻役を兼任している者が多い。
皆切高(かいきりだか)  持高すべて切高(持高の一部を他人に売却)することで一部の村を除き寛保元年に禁止された。享和元年に残し高二升を定め名高といわれた。
懸作(かけさく) 百姓が自分が住んでいる以外の他村の高を所持したこと。
裁許(さいきょ) 才許とも書き、一定身分の者ををいう。十村も何々組才許といわれた。
塩士(しおし) 加賀藩が寛永四年よりしいた塩専売制のもとでの塩生産者。塩士に藩が塩手米を貸し与えて生産された塩をすべて上納させ、指定の塩問屋を通じて販売。
新田裁許(しんでんさいきょ)  新田開発などを担当した新田十村がいたが、元禄三年より十村の下役として改作奉行より任命され陰聞役(かげききやく)を兼務。
十村(とむら) 他藩の大庄屋にあたる加賀藩特有の職名で、最初は十か村を裁許したので、十村となった。農民の最高職で家格・持高・技量等が問われた。
扶持米(ふちまい) 現米をもって何人扶持というのを扶持米と言い、男子一人一日五合、女子三合を基準とした量で計算した。御扶持人十村等名誉職的なものであった。
村御印(むらごいん) 各村の草高・免・小物成の額を記し藩主印を捺した租税徴収令状。慶安・承応・明暦・寛文の四度交付されたと言われる。
山廻(やままわり) 御林山・七木の監視や川除・用水の下附材木改めを行う山奉行の下僚。寛文三年創設の百姓山廻は十村分役である。
(加越能近世史研究必携を参考)

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