■初代真頼 | |
(文は石川県立図書館「能登珠洲上戸村真頼家文書目録」30〜31頁より) |
|
|
■二〜四代真頼 | |
三代真頼は、慶安三年に利常より十俵の扶持を貰い、上戸組十村を勤めるが、承応二年に創始された十村代官となり、堂ケ谷・法住寺・弘国の三村の収納に当たる。さらに、承応四年の珠洲郡年貢皆済状の宛所は上戸村真頼とあり、承応二・三年の珠洲郡年貢米を三代真頼がまとめて上納しており、珠洲郡の収納代官の中心的役割を果たしていた。さらに、寛文七〜九年には、鹿野村恒方とともに羽咋・鹿島両郡の収納代官、寛文十一年珠洲郡、寛文十二年羽咋・能登郡の収納代官、となっている。 四代は、延宝三年に扶持安堵、山廻代・御塩懸相見役は勤めるが十村役を勤めていない。ところが延宝四・七年の珠洲郡年貢皆済状の宛所に名を連ねており、収納代官を勤めていたことがわかる。 (文は石川県立図書館「能登珠洲上戸村真頼家文書目録」31〜32頁より) |
|
|
■五〜十代真頼 | |
五代真頼は、元禄十四年に御扶持を仰付けられたが、頂戴せず正徳五年病死とある。その間十三年もあり扶持状が貰えなかったのは病弱か若年で御用が勤められなかったためと思える。このため、五代に男子はなく、柳田村助太郎次男を養子として六代目を嗣いでいる。 六代は、元文四年に山廻役・御塩懸相見役を勤め、宝暦元年に病死をする。 七代真頼(平六)は、安永二年に御扶持人十村を勤め活躍する。この頃は、真頼家は隆盛で、伜十吉が安永五年に奥郡新田才許となり、七代の弟と推定される彦八も安永四年に千石代官・山廻役を勤める。 九代真頼は、珠洲郡寺家村百姓徳右衛門の伜で、十代真頼も同家から養子、に来ている。 十代は、天保六年に九代の養子となり、同年金左衛門を真頼と改名、同年十二月に斉泰の扶持安堵状を貰い、明治二年若山組当分才許となり、幕末の激動期に活躍する。また、枠の吉次郎も安政五年に山廻役・御塩懸相見役を勤める。文化十二年生まれの十代真頼は、還暦を迎えた明治八年に能登国十二区副区長を差免され、第一線から退いている。 (文は石川県立図書館「能登珠洲上戸村真頼家文書目録」32頁より) |
|
|
■真頼の持高 | |||||||||||||||||
他の天正期扶持百姓をみると、狩野村恒方は文政年中三ニ石六斗六升五合、仁江村友貞は延宝七年二九石三斗四升五合、享和元年一六石七斗でそこそこの持高であるが、若山村延武は、安政四年の御扶持高七石五斗で持高は僅か五斗であった。このように、持高の少ない者が十村・山廻役を勤められたのは、やはり家の格式であったのであろう。 (文は石川県立図書館「能登珠洲上戸村真頼家文書目録」32頁より) |
|||||||||||||||||
|
■北方村の持高 | |
ところが北方村の高異動は文政以降大へんなものである。最高の高持ち源右衛門は安定しているが、二番目の藤右衛門は、二五石二斗八升七合が安政六年に六斗六升四合と激減し、元治元年に皆切高をして頭振となっている。持高三、四位の又右衛門・六郎右衛門も二〇石以上の高持ちだが、いずれも皆切高をして頭振りとなっている。 これに対し、九石余の助右衛門は安政六年に四五石余、二石余の与作が慶応二年に四七石余の大高持となっているように、高変動の著しい村であった。 このような現象は、塩士村の特徴なのか、幕末の当地域の一般的な動きか留意すべきであるが、真頼家もこの波にまき込まれ、文政から天保にかけて持高が半減したのであろう。 (文は石川県立図書館「能登珠洲上戸村真頼家文書目録」33頁より) |
|
|
■天正11年 前田利家扶持状 | |
上戸村之内以拾俵令扶持候、惣高之内を以可取之者也 天正十一 十一月廿二日 利家(印) 上戸 さねより 上戸村(珠洲市上戸町)の真頼に、10俵の扶持を与えたもの。天正10年(1582)の石動山合戦で、利家に協力したためと伝承されるが宛名に敬語がなく、7月の功績の評価は低かったと考えられています。 |
|
|
■真頼文書用語解説 | |
◆御塩懸相見人(おしおかけあいみにん) 毎月三回、五の日に生産塩の品質、桝目を検査して塩蔵に収納することの担当者で戸村の準役で山廻役を兼任している者が多い。 ◆皆切高(かいきりだか) 持高すべて切高(持高の一部を他人に売却)することで一部の村を除き寛保元年に禁止された。享和元年に残し高二升を定め名高といわれた。 ◆懸作(かけさく) 百姓が自分が住んでいる以外の他村の高を所持したこと。 ◆裁許(さいきょ) 才許とも書き、一定身分の者ををいう。十村も何々組才許といわれた。 ◆塩士(しおし) 加賀藩が寛永四年よりしいた塩専売制のもとでの塩生産者。塩士に藩が塩手米を貸し与えて生産された塩をすべて上納させ、指定の塩問屋を通じて販売。 ◆新田裁許(しんでんさいきょ) 新田開発などを担当した新田十村がいたが、元禄三年より十村の下役として改作奉行より任命され陰聞役(かげききやく)を兼務。 ◆十村(とむら) 他藩の大庄屋にあたる加賀藩特有の職名で、最初は十か村を裁許したので、十村となった。農民の最高職で家格・持高・技量等が問われた。 ◆扶持米(ふちまい) 現米をもって何人扶持というのを扶持米と言い、男子一人一日五合、女子三合を基準とした量で計算した。御扶持人十村等名誉職的なものであった。 ◆村御印(むらごいん) 各村の草高・免・小物成の額を記し藩主印を捺した租税徴収令状。慶安・承応・明暦・寛文の四度交付されたと言われる。 ◆山廻(やままわり) 御林山・七木の監視や川除・用水の下附材木改めを行う山奉行の下僚。寛文三年創設の百姓山廻は十村分役である。 (加越能近世史研究必携を参考) |
|
|