所在地
  石川県鳳珠郡能登町
  字笹川
  電話0768-76-0052
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内平美術館


柳田村に美術館ができた
美術館全景
 古典的な彫刻技法の伝統や法則にこだわらず、「自由な発想、技法」を試みる内平の作品は、色や肌合いの異なるさまざまな種類の木々を用いた寄木や象嵌の技術が、自由に組み合わされる。
 古典的であるよりはむしろマンガ風の造型感覚と共に,「現代世界や女性の魅力の表現」が求められている。
                      月刊アトリエ NO.748

師からのエール
内平俊浩
 内平は、大学を名古屋で学び、卒業後上京し私の主宰する工房で4年間基礎を重ね、以後作家活動と工房を基盤に制作発表を続けている。毎年個展形式の発表を続け常に注目を集めている。ユニークな彫刻家である。
 内平の彫刻は、伝統的な木彫、それに対して近代的な木彫、それより更に新しいヌーベルバーグの木彫である。何もかもわかっているつもりだが発表のたび旺盛な発表意欲に賛美を送っている。
 その彼がこの度、生まれ故郷の柳田村で自分の作品を中心にした美術館を造った。能登半島は普通金沢文化圏とされるが、もっと深いところに精神文化の種子を持っている。彼は突然の人種ではなくて伝統を重んじる土地柄から作品の発表の仕方から作風まで、一切が能登の人の発想である。
 自分の美術館を持つと言う一見大それた行動も、能登をこよなく愛している彼だからこそである。この美術館を大いに発展させ、能登からの風が全国に向かって吹いていく様に心から望んでいる。
                                     小畠廣志
(文は「内村美術館」パンフレットから、写真は同氏ウェブページから)

WOMANシリーズ100体完成をみて -回顧
テルミドール 1988年(200×200)
 1999年、私はKOBATAKE工房でシリーズ100体を完結することができた。そしてそれを祝ってくれるかのように、富山県黒部市国際文化センターにて100体展も企画していただいた。独特の風土を持つ石川県でもシリーズ作品を展示していただいたことは出身者である私にとっては非常に嬉しいことであった。1994年には皆さんのご協カもあり、生まれ故郷に個人美術館も建てた。今から思うと無謀とも思えるがやはり若い頃のパワーであろうか、小畠先生にもずいぶん応援していただいた。今でもとても感謝している。
 私は大学を名古屋で学んだ後、22才で工房に入学した。彫刻家を目指すべく、気合いは十分だった。今からよく考えてみると作品はあまり制作することなく意識だけであった。若いものがよく陥るパターンである。
(文はKOBATAKE工房 SCULPTORS FORUM No.20より)

WOMANシリーズ100体完成をみて -個展
シンクロナイズ 1988年(H90)
 25才の時、個展をやろうと思い立った。木彫である。よくなぜ木彫なのかと質問されるときがあるがうわべでは、木の暖かみ、ぬくもりがいいとか、木の文化が好きだとかなんとか言ってはいるが、最初は何となくであった。
 小畠先生もよくおっしゃっていた言葉に「木彫は才能がいる。才能のない奴は木彫なんかやっちゃいけない。」という言葉がある。石や粘土は才能がいらない、という意味の話ではないのだが、木彫をやればやるほどその意味がのしかかってきた。とにかく個展を重ねるべく頑張った。最初作品はなぜかおもしろいものである。
 今でも1987年に発表したシンクロナイズは私にとってもおもしろい作品のひとつだと自分でも思う。最初の個展の時から、何がなんでも10年連続で個展をやると自分に課題を課した。
(文はKOBATAKE工房 SCULPTORS FORUM No.20より)

WOMANシリーズ100体完成をみて -課題
美術館展示のWOMANたち
 5回目だろうか、すでに作るものが何もなくなった。リピートをやるわけにもいかず思い切って粗削りの人体を20体作ってみた。苦肉の策である。これがWOMANシリーズのはじまりであった。粗削りはおもしろいものである。才能があるならば、その先はもっとおもしろいのであろうが、自分流でやるしかなかった。
 これも性格だろうか、100体までと自分に課題をかした。またテーマも、現代女性表現としぼった。もともとなまけものの性格なのだろう妙なこだわりであった。大きくなるにつれ、思考的にも技術的にも開き直れたのか後半の作品のほうが白分ではおもしろく思う。今までの13回の個展の中で感じたものは、作品はもちろん作家個人のために作るものではあるが、人に見てもらうことで作品がはじめて作品になるということである。
(文はKOBATAKE工房 SCULPTORS FORUM No.20より)

WOMANシリーズ100体完成をみて -表現
展示ホール内全景
 作品を見て心が動く、その動き方は、おかしいとか、気持ち悪いとか感じ方は自由であっていいと思う。これこそが作品の使命であると思う。人のまねであったりしてはいけない。自分自身を表現するものでなければいけない。
 だから作家は、思考的に高くなければいけない。また技術的にも磨いていかなければいけない。その上で自分を昇華すべく作品を作るということだとおもう。思考的に高い作品だとしても、技術がないとつまらない、技術がある作品でも思考が浅いとつまらない。やはり作品はおもしろくなければいけないのである。そして作品は多くの人の目に触れなければいけない。100体完成した後の私が感じたことだった。
(文はKOBATAKE工房 SCULPTORS FORUM No.20より)

KOBATAKE工房の魅力
作品-女子高生
 私が30才を過ぎた頃、先生とも長いつき合いになったためだろうか、先生と色々会話するようになった。美術界の話、OB達の話、特にOB達の話は格別おもしろかった。たいていの人の話は今でも話せるくらいである。作り話かその真相はしらないが、妙におかしいものだった。「あいつはこまったやつだ」というが、その裏には愛情があった。その他作家としての姿勢のあり方、美術、芸術の本当のあり方等、日頃の工房の中で比喩的に表現していた。
 私のシリーズ作品に関しても「100もあれば、あきれて誰も文句は言わない」と。これも苦しかった経緯の中では励まされる言葉であった。又「おまえの仕事の速さは病気だ」「内平は一日一体作る」(実際は作っていないが)「体はコケシみたいでそれに顔つけるだけでできあがっていいな」とか色々からかわれもしたが、悪い気はまったくしなかった。また同時に人としての礼儀、ひとへの思いやり等に関しても色々、教えていただいた。もっと長くお付き合いがしたかった。
                                 内平俊浩
(文はKOBATAKE工房 SCULPTORS FORUM No.20より)

内平俊浩 略歴
柳田の田園風景
私達は,現代に生きている。
現代にはいろいろな人がいる。
男とは別に女がいる。
その中にもいろいろな女性がいる。
今,共に生きる現代女性を,木という素材で、
時には色っぽく,時にはユーモラスに表現したい。
             内平俊浩のウェブページより
1960 石川県柳田村笹川に生まれる
1982 名古屋芸術大学美術学部彫刻科卒業
1986 KOBATAKE工房卒業
1987 個展(画廊春秋:銀座)
     ギャラリーなつか,ギャラリーK(銀座)で毎年発表
1988 ハンズ大賞展審査員特別賞
1990 20人の彫刻展(新宿)
1993 内平美術館設立(柳田村)
1997 手からの思考展(埼玉県立近代美術館)
1998 石川県作家選抜美術展(石川県立美術館)
1999 内平俊浩展(富山県黒部市国際文化センター・コラーレ)
     現在 無所属

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