肥料の使用


下屎(しもごえ)の購入
 前述した「各種農作物耕作之覚」中の延宝六年(一六七八)の「田地人懸り之図」では、柴草壱番屎六人、坪土弐番屎五人、三番馬屋屎下屎四人と、田一反を耕作する際の肥料投下に必要な労働人数が書上げられている。この人数はどのような性格の人数なのか明確ではないが、単に施肥の際にかかる人数ではなく、それらの肥料を仕立て、運搬する作業も含むものと思われる。そのように考えて、他の農作業でこの人数を上廻るものをみると、三番迄之草取手間六人、干稲積入迄九人、稲こき摺立米二仕立申迄八人の三つの作業だけであり、このうち後二者は稲の収穫・調整の作業であるから,実際に稲の栽培で最も手間がかかるのは施肥と草取りであったのである。
 ところで、この「田地人懸り之図」では肥料の種類として、柴草・坪土・馬屋展・下屎の四種類が使われていたことがわかる。このうち、柴草は多分「芝草」の意味で、刈敷のことであろう。刈敷は山野の草を刈ってきて直接田へすき込んだり、馬屋へ入れて牛馬に踏ませたり、下屎などと混ぜるなどして使われた。坪土は雑草などが密生している土(芝土)を薄くはぎとって壺(穴)に入れ、それに若草を入れたり、真糞・馬糞を入れたりして掘り返し、醗酵させて使用する。ちょうど土とたい肥を混ぜ合わせたような肥料となるので土屎(土肥)とも称された。土屎は労力さえかければどの農家でもつくれたが、労力がかかるため購入肥料に頼って次第に使用されなくなり、そのため藩では享和二年(一八〇二)に購入肥料に頼りすぎているため小百姓らは屎不足になってきているので、土屎を使用するようにと命じている(『加賀藩史料』第11編、167〜9頁)。馬屋屎は厩肥で、馬屋に敷藁を入れて馬に踏ませ、それに馬の糞尿や飼料の残り津などが混って肥料となるものであったが、馬を所有している農家に限られるため刈敷や下屎ほど一般的ではなかった。最後の下屎はいうまでもなく人糞尿のことである。この時期、購入肥料(金肥)である干鰯や油粕が使用されていたかどうか不明であるが、しかし、これらの自給肥料が中心であったことは確かである。
 これに対して、江戸時代中期になると金肥の使用が盛んとなった。天明六年(一七八六)の鶴町村の村鑑帳では「田屎之儀者いわし・下屎・山草・はい屎第一ニ仕、其外万手段を盡申候、毎年屎代百石余り米出シ申候」(第三巻九九二頁)とあって、いわし(干鰯)が下屎・山草(刈敷)・はい(灰)屎と並んで盛んに使用されていたことがわかる。しかも肥料代のために百石余りの米が支出されていたのである。
 ところで、この鶴町村には百姓藤次郎家が肥料を買い入れた文政十三年(一八三〇)の記録がある(第三巻一〇二九〜三二頁)。これによれば、波並村の六人と藤波村の一人に米を貸し付けて屎などを受け取っているが、合計一石六斗の米を貸し付け、屎十一桶一歩(屎一桶の代米は四〜五升)、しゃうべん(小便)二樽、灰三俵、その他(意味不明)を受け取っている。このうち、屎は小便と区別されているから大便(糞)のことで、肥料としての効果や用途が異なるため、農家では最近まで用便の桶や壺は別々に作られていたものである。ここで藤次郎家に展を供給している波並・藤波村はいずれも漁場の村で、波並村の場合、当時の村高二百八十五石五斗に対して百姓数三六軒、頭振数七七軒(天保三年頃、第三巻九五二頁)と、漁業に従事するものが多かったため、土地を持たない頭振の数が多かった(鶴町村では村高五百三十七石一斗に対して百姓数五〇軒、頭振数二一軒、第三巻一〇二三頁)。そのため屎にも余裕があったと思われる。藤次郎から貸し米を受けていた六人のものは波並村の持高帳(第三巻九三三〜四、九四二〜三頁)には名前は見えず、あるいは頭振であったかもしれない。
 ただ、この貸し米は五、六年以前のものから書上げられていて、受け取った屎などの代米を差し引いて改めて不足分(五斗二升五合)が書上げられているから、先の七人は数年来の貸しのある人々で、その年々で決済が行なわれている分は書上げられていない(屎も一度に受け取ったものでなく、数年のうちに受け取ったもの)。それ故、これだけでは一年間にどれだけの屎代米が支払われ、どれだけの量の屎を買い入れていたかはわからないが、当時、鶴町村では漁場で家数も多い波並・藤波村のものに米を貸し付け、下屎の確保をはかっていたことがわかる。
 さらに、この文政十三年の記録には(年代は明記されていないが、表紙にある文政十三年のことか)、宇出津本町の不忠屋から藤次郎家が鰯(干鰯)を受け取った量と代米を記載されている。これによれば、合計二七四杯半の干鰯を受け取り(一杯に付米二升二合で、代米の合計は六石三升九合)、そのうち三九杯半は村内の三人のものに渡されているから藤次郎家では二三五杯を買い取っていた。
 このように干鰯はもとより下屎も購入していたのであり、肥料代も少ないものではなかった。前述の天明六年の村鑑帳で鶴町村では百石余りの米を肥料代として支出しているとあるのもあながち誇張したものではなかった。
(「能都町史」第五巻1441頁より)

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