渡辺圭司さん
 元朝日新聞記者
 戦艦大和及び第二艦隊
 沖縄海上特攻作戦取材者
 長野市在住

臼渕か臼淵か?
(渡辺さんの回答の骨子)
臼渕を使ってきた理由
 大和沈没後の大和主計長名でまとめられた事務処理名簿で使用。兵学校71期生の追悼録で使用。
 中学生時代の詩集文藻のーとの筆者名で使用。
臼淵使用の例
 昭和14年12月12日付、妹の汎子さんあての手紙で使用。
 中学生時代の作文では両方使用。
 父親の清忠氏所有の「海軍航空関係高等官名簿」で、所有者名を「臼淵清忠」と署名。
 昭和44年当時の厚生省の戦艦大和戦死者名簿で使用。

 以上から戸籍名は臼淵と推測され、今後、渡辺さんは臼淵を使われるとのこと。

「臼淵大尉」手紙展


戦艦大和と共に沈んだ「臼淵大尉」からの手紙展
「臼淵大尉」からの手紙展で渡辺氏の講演「臼淵大尉」の手紙展で渡辺氏の講演
「臼淵大尉」からの手紙展での渡辺圭司さんの講演
 平成22年7/30〜8/21の期間、臼渕大尉顕彰委員会の主催で展示会が開かれました。今回の展示会では、16歳で広島県江田島の海軍兵学校に入学した大尉が、横浜市に住む妹・汎子(ひろこ)さんと母・きみさんに宛てた手紙11点、米軍機が撮影した沖縄特攻へ向かう戦艦大和の写真8点が展示されました。
 期間中の8月7日には、戦艦大和の取材を続ける元新聞記者・渡辺圭司さんの講演会も開かれました。演題は『「敗れて目覚める」のルーツ〜臼渕磐大尉の青春』で、主催は同じく臼渕大尉顕彰委員会によるものです。以下、講演会の資料から内容を紹介します。

『「敗れて目覚める」のルーツ〜臼渕磐大尉の青春』
 太平洋戦争の末期の1945年4月7日、旧日本海軍の戦艦大和を旗艦とする第二艦隊第一遊撃部隊は沖縄海上特攻作戦で出撃中、東シナ海で米艦載機群と交戦しました。
 10隻のうち戦艦大和をはじめとして6隻が沈没し、将兵約6800人のうち戦死者数は約3700人。うち戦艦大和に限ると、乗員3332人中、戦死者は2740人で、その割合は8割にのぼります。
 作戦目的は「沖縄西方海面に突入、敵水上艦艇並びに輸送船団を攻撃撃滅すべし」でしたから、この出撃は失敗に終わりました。
 世界の海戦史上、前例のない艦隊特攻です。
 実施部隊は沖縄海上特攻作戦そのものを批判、反対しました。また、作戦終了後の戦闘詳報でも戦艦大和も第二水雷戦隊のそれぞれが「特攻作戦は精鋭を徒死させるもの」と批判しています。
 出撃前、沖縄海上特攻作戦について兵学校出身の職業軍人と一般大学から学徒出陣で任官した士官の間では深刻な議論があり、この場を納めたのが臼渕磐大尉の名言であること吉田満の著作「戦艦大和ノ最期」で描写されています。                                 

臼渕磐の「敗れて目覚める」発言の問題提起
【戦艦大和の特攻の意味】
 西洋技術を導入し、合理的な科学で生み出し、日本近代化の総決算とでもいうべき戦艦大和を沖縄海上特攻作戦に投入。
 海上特攻隊編成の理由を全軍に発表。豊田副武連合艦隊長官。
 「帝国海軍海上部隊の伝統を発揮すると共にその栄光を後昆に伝えんとするに外ならず」
 批判多い。
 吉田満の言。
 「古今東西に比類のない超弩級戦艦の演じた無残な苦闘が、はからずも日本民族の栄光と転落の象徴を形作っていることであろう」
 当時の関係者の証言
 三上作夫。連合艦隊参謀(戦後は海上自衛隊自衛艦隊司令官)
 「あれだけの巨費を投じてつくった大和がいくさに行かずに負けたとしたら,申し訳ないという気持は非常にあった」
 高田哲男。兵学校教官(戦後、旭化成副社長、弟が戦艦大和で戦死)
 「負けるとしても、戦艦大和が残っていたら国民は納得しなかったろう。沈むしかなかった」

【臼渕磐発言の重要性】
 臼渕磐は明治以降の日本がとった近代化路線と太平洋戦争を「私的な潔癖や徳義にこだわり、本当の進歩を忘れていた」と総括した上で、特攻の意義を「敗れて目覚める」と語る。
 沖縄海上特攻作戦の救いとなる発言。

【本当に臼渕磐が発言したのか】
 吉田満著「戦艦大和ノ最期」の信憑性。
 救助艇の手首切り問題。
 実際に救助艇に乗った元士官が質問状を出しているが、返答はないまま、吉田満さんは死去。
 臼渕磐発言を裏付ける第三者の証言がない。

【臼渕磐の人物を探る】
 臼淵磐大尉は1923(大正12)年8月21日生まれ。沖縄海上特攻作戦当時は21歳7ヶ月でした。
 横浜第一中学校から兵学校に進みました。71期で昭和14年12月1日に入校。卒業は昭和17年11月14日です。
 汎子さんは1924(大正13)年7月24日生まれ。
 臼淵磐について、中学校の1年から3年まで担任だった犬養孝先生の話です。大学を出てすぐの先生だった。
 犬養先生は万葉学者として有名な方で、文化功労賞を受けられました。
 1994年02月15日にインタビューしました。
純心そのもの。こんなに心のきれいな生徒はいない。生一本。
授業中は座席にすわっていてもきちっとしていた。先生のいうことを聞き取ろうとしていた。性格は実によい。作文が実にうまい。
文芸的感覚が鋭い。
僕は教科書を余り使わなかった。文学を教室で教えた。岩波文庫をずっと読んでいた。横浜一中の生徒は文学を読むなどませていた。
臼渕君は立派な広辞苑を持っていた。
4年で更級日記を読み終わる。
擬人的なところ、作文はうまい。
かわいそう。おしい。文学に向いていたが、国家に思うことが強かった。
1,2,3年を担任としてつきあった。
掃除をする。机の上を雑巾がけをする。
気持ちのいい、生意気な態度ない。まさに模範的、文芸にくわしい。
万葉集の講義はしていない。もし、講義していたら、純心の固まりだから、万葉集を知ったら万葉学者になっただろう。
万葉を知らずに死んだ。
俳句の芭蕉と蕪村の比較論をした。文学の話が好きだった。
 教師を40年ばかししたが、これと思う生徒は黛敏郎君と一年先輩の臼渕磐君の二人だけだ。

 私は旧制中学校5年の国文教科書が万葉集をどう取り扱っていたかを、調べた。
平均して9歌人10首を紹介。柿本人麻呂、大伴旅人、高橋蟲麻呂、山上憶良、山部赤人、大伴家持らの歌をのせている。
 大伴家持は越中の国守を務めていた時に能登半島を視察している。

 珠洲(すず)の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり

 今の石川県珠洲市の港を船で朝早く出たが、富山県氷見市の長浜に着いた時は月が照っていた、という内容だ。
 臼渕磐の父の郷里なので、臼渕が5年生まで在学したら、万葉集に、とりわけ大伴家持に関心を持ったのではないか、と思う。
 大伴家持の歌に次のようなますらをぶりを歌った歌がある。

 ますらをは名をし立つべし後の世に聞きつぐ人も語りつぐがね

 男たるものは自分の名前を後世に語り継いでもらうような功績をたてるべきだ、という内容だ。

【臼渕磐の手紙】
 兵学校に進んだ臼渕磐が妹さんに宛てた手紙は現存で37通。そのほか母あてが1通あります。16歳から18歳にかけての時代です。
 この中で一番印象に残った手紙は1941(昭和16)年10月17日付です。
 便せん6枚と最長の手紙です。
 この中で、広島市内のデパートでエレベーターに乗るのですが、案内嬢が一般客が希望した途中階を無視して兵学校生徒の希望する最上階へ直行するくだりがあります。
 戦雲濃くなり始めたころですから、市民の兵学校生徒に寄せる期待の表れかと思いましたが、なだいなださんにこのくだりを読んでいただき、感想をうかがいました。
 すると、なださんは一笑にふして、「兵学校の制服が格好いいからですよ。女性のあこがれでした」と言いました。
 兵学校がどんな所か、記録映画をご覧ください。

【臼渕磐の意味】
 「敗レテ目覚メル」は果たして臼渕磐が言ったのか、は確定できません。が、「戦艦大和ノ最期」を刊行してその内容の部分部分について事実無根の指摘があったのですが、21年後に同じ吉田が刊行した「臼渕大尉の場合」ではこの発言は事実あった、という前提で書いています。
 しかし、今言えることは「臼渕磐だったらこう言ってもおかしくはない」「臼渕磐なら言ったかもしれない」です。
 東京大学出身の水測士浅羽満夫さんはこう言います。
 「兵学校出と予備学生の間で論争があったことは知らない。しかし、臼渕磐なら言ってもおかしくない。そういう雰囲気をもっていた」


「敗れて目覚める」のルーツ
 「敗レテ目覚メル」のルーツを臼渕磐の文化的素養に求めてきましたが、私は特に関心があるのは、能登半島の風土です。父親を通して臼渕磐は能登の気持を受け継いでいたことと思います。
 特に父清忠は航空重視論者として時代の先を見ながら、海軍を追われるように退役しています。能登人は本質を見るがために悲劇に追い込まれる、という宿命を背負っているのでしょうか。
 この地に顕彰碑が建立された意味は大きいと思います。
 我々は永遠に臼渕磐の「敗レテ目覚メル」を背負っていかなければなりません。沖縄海上特攻作戦という歴史を持ったからです。
                                  以上

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