三波小学校の歴史館


三波小学校の歴史
閉校時校舎
 目の前に日本海が広がる三波小学校は、明治6年の開校以来、地域のシンボルとして、文化の中心として、子どもたちの教育の場として、長くその役割を果たしてきました。閉校時の全校児童は"7人"。
三波小学校は「みんなが主役になれる学校」でした。少ない児童数がゆえに、児童一人ひとりがあらゆる経験をすることができたからです。小規模校としての特色を生かし、子どもたちが自ら考え、学ぶ力を伸ばせる学校でした。
(能登町広報誌「広報のと」No.14より)

卒業式・閉校式
最後の卒業式

最後の卒業式

 平成18年3月16日に最後の卒業式があり、2人の卒業生が受け取った卒業証書は、自分たちで制作した和紙に名前が書かれたもので、世界で一枚しかありません。
 当時の中平義則校長からは「2人の最上級生としての活躍は目覚ましかった。たくさんの感動をありがとう」とお祝いの言葉が贈られました。
 閉校式は3月25日に行われ、児童達は慣れ親しんだ母校との最後の別れを惜しみました。
 この学校で学んだことを忘れず、新しい学校で自分たちの夢に向かって歩み続けてください。
      (能登町広報誌「広報のと」No.14より)

閉校までのあゆみ
生徒達
 明治 6年11月 波並村落小学校創立
 明治41年 4月 小学校令改正終業年限6ヵ年に
 大正 2年 4月 三波尋常小学校と改称
 昭和22年 4月 三波村立三波小学校と改称
 昭和38年 9月 ミルク給食実施
 昭和53年 8年 新校舎完成
 平成 9年8 年 「全国学校体育優良校」表彰
 平成18年 3年 三波小学校閉校

(閉校記念誌「思い出の我が母校」より)

旧校舎の想い出−登下校
旧校舎
旧校舎
 その当時の学校までの道のりは、45分。もちろん、歩いてのことでしょう。崖の下波がざぶりとかかる所を七曲りして。さらに、学校は少し高い所にあり、そこまでは急な坂道でもある。
 毎日のことだと考えると当時、学校へ行くだけでもどれほど大変だったかをうかがいしることができるでしょう。しかし、そこは子供のたくましさか、冬でもスキーをしたり、下校時には大きなつららをほおばって帰っていたという。
             宮越すえさん (昭和10年入学)
(閉校記念誌「思い出の我が母校」より)


旧校舎の想い出−開戦前夜
猪の平分校
 朝、全校生徒が鐘の音で集まり、校長先生の朝礼のお話を聞き、それからそれぞれの教室に入る。今では考えられないことですが、教室の黒板の後ろには天皇・皇后のご真影が安置されていていた。
 そんな時代背景もあってのことでしょう。だれもが知る真珠湾攻撃があり、アメリカとの戦争が勃発。
             宮越すえさん (昭和10年入学)
(閉校記念誌「思い出の我が母校」より)

旧校舎の想い出−時の流れに
猪の平分校の子供達
 三波小学校の生徒にもその余波が静かに忍び寄っていました。もちろん、生徒は小学生であったため本当に純心で、日本が負ける戦をしていることを知らなかった。
 ただ、何年か後にクラスの男の子が特攻隊で戦死をしていることを聞いたという。
 宮越すみさんは、次の言葉を残している。「時の流れに人間は流されていくのだろうか」 
 当時の学校の様子を思い描く時にふと、教育を受けられることの"ありがたさ"を今の世代に、そして次の世代にも伝えていくことができたらと思わずにはいられなくなるのは私だけでしょうか。
             宮越すえさん (昭和10年入学)
(閉校記念誌「思い出の我が母校」より)

新校舎の想い出−桜の木
校舎前の桜の木
 三波小学校に来て最初に驚いたのは桜の木でした。教室の窓から手が届くような所に咲き誇っています。最初の行事にお花見集会がありました。
 少ない人数ながら子供達がはきはきした態度で発表したり歌ったりするのにも驚かされました。それから毎日が花見給食でした。山で育った私には海辺の桜の木の下で給食を食べれるのがなんとも不思議でした。
 眼下には富山湾が青く広がっています。時には立山の稜線がくっきりと浮かびあがり、まるで絵を見ているようです。子どもたちの視力がほとんど2.0というのもこの景色からいえば当然なのかもしれません。
             脇 祐志先生経験
(閉校記念誌「思い出の我が母校」より)

新校舎の想い出−自然の中で
新校舎前
 ふり返ってみると緑豊かな山々がつながり、海山に囲まれたまさに自然の学校です。職業柄今までに数多くの学校に訪れましたが、このように自然豊かな学校は見たことがありません。
 ほかにも思い出はたくさんありますが、地域の方々や保護者の皆さんの協力で得て大敷網の船に乗せてもらった事が記憶に残っています。
 仕事の厳しさ、自然の中での緊張感などを子供達と一緒に教えてもらいました。小規模校ならではの体験をすることができました。
             脇 祐志先生経験
(閉校記念誌「思い出の我が母校」より)

ページの先頭へ