■郷土の誇り/久田船長 | ||
久田船長は元治元(1864)年、鵜川村生まれ、日本郵船入社、青函連絡船「東海丸」船長。命を懸けた非常汽笛で知られる。 明治36年吹雪の中を航行、貨物船プログレスに衝突される。船長は欄干に体を結び汽笛を鳴らし続け海に沈んだ。 地元では顕彰会が設立。昭和9年には時の総理の墨蹟による高さ6.6mの石碑が建てられ今も船長を語り伝えている。 (写真左は東海丸、右はプログレス号/「能都町史」第5巻960頁より) |
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■鵜川から世界へ |
久田船長(名は佐助)は、元治元年(1864)11月30日、鳳至郡鵜川村(現能登町字鵜川)に生まれた。父佐助(久田家は代々佐助を名乗っていた)は宇出津の紙子家から入って久田家を継いだ人で、佐助が8歳の時に死亡した。 母の手で育てられた佐助は、鵜川小学校を卒業後、家業を継ぎながら原勤堂の門に入り儒教を教わる。しばらく鵜川小学校の教員となるが、23歳のときに北海道に渡ることを決意し辞職、辞表には「函館商船学校入学のため」と書かれてあった。 商船学校で6年間の勉強を終えた佐助は、日本郵船株式会社に入社し、国内の航路はもとより、横浜・上海間、神戸・天津間などの航路にも従事した。その間、各船長の本社への報告には、いずれも技術が優秀で将来有望な海員であることを証明しない者はいなかったという。商船学校卒業後、わずか4年半で一等運転士となった佐助は明治36年6月、38歳のときに青森・函館・室蘭間の定期連絡船「東海丸」の船長に抜擢された。 (文は能登町広報誌「広報のと」32号より) |
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■命を懸けた非常汽笛 | |
久田船長は、吹雪、轟音、絶叫の中で乗組員を指揮し、乗客・乗員すべてを5艘のボートに乗せた。「皆よくやって助かってくれ」と叫びながら自分の体を欄干に結びつけ、非常汽笛を鳴らしながら船とともに海に沈んだ。久田船長がボートに移ることは簡単だった。しかし一人でも多く助かるためには、行き過ぎたプログレス号や陸上からの救援を受けるしかない。 船長はその唯一の手段として、非常汽笛を鳴らし続けることを決断したのだ。結果、乗員乗客104人のうち過半数が助かった。 (文は能登町広報誌「広報のと」32号より) |
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■伝え続ける顕彰会 | |
現在は「久田船長顕彰会」が中心となり、毎年10月29日に石碑の前で碑前祭を行っている。顕彰会会長の河合元一さんは、前身である「久田船長建碑会」会長であった父親の意志を受けて、公民館と共同で碑前祭を開催している。 河合さんは「鵜川の先輩たちが久田船長の行動を顕彰し、伝え続けてきた。自分たちの先輩にこんな人がいたんやよと子どもたちに伝え、郷土に誇りを持って欲しい」と考えている。久田船長の行為については「人間としてなかなか出来ないこと。その精神は自分でも持っていたい」と話す。 (文は能登町広報誌「広報のと」32号より) |
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■偉大なるマンネリ | |
今年で105回目を迎える久田船長碑前祭について河合さんは「何も変わったことは出来ない。マンネリと言われても、これからもずっと続けていきたい」と力を込める。 ボーイスカウトの父と呼ばれるイギリスのべ-デン・パウェル氏が久田船長について少年たちに残した言葉がある。 「この船長が選んだ道によって世界の人々はさらに船に対する信頼、船長に対する信頼を深めた。日本の久田船長は世界の名船長である」。 (文は能登町広報誌「広報のと」32号より) |
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■久田佐助船長略歴 | |
元治元年(1864)鳳至郡鵜川村(現能登町字鵜川)に生まれる 明治16年(1883)鵜川小学校教員となる 明治19年(1886)北海道に渡り、翌年函館商船学校入学 (函館商船学校は明治23年に東京商船学校と合併) 明治26年(1893)東京商船学校卒業、日本郵船株式会社に入社 明治27年(1894)日清戦争で御用船に乗り込む。功によリ勲六等に叙せられる 明治33年(1900)北清事変で御用船に乗リ込む。功によリ勲五等に叙せられる 明治36年(1903)6月に青森・函館・室蘭間の連絡船、東海丸の船長に 明治36年(1903)10月29日、ロシア貨物船プログレス号と衝突し殉職、享年38 (文は能登町広報誌「広報のと」32号より) |
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■終戦直後の危機 |
昭和二十一年の晩秋(月日は億えていない、天気のよい日だった)私は役場へいくため菅原神杜前にいったところ(当時町役場は同神杜の横にあった)GHQのCIE“民問情報教育局”のジープが三台連なって来て、同神杜の調査を始めた。(中略)調査は杜内が事なく終わり、つかつかと外(境内)へ出た途端「久田船長碑」を指さして何か言ったが「撤去せよ」と通訳が強いアクセソトで厳粛に宣告した。 私はびっくりした。彼らの命令は絶対である。命令は即決である。既に各地で学校の神棚や忠魂碑が破却されたという話が流れていた。私は梅田神主をさし置いて代弁にせせり出た。 「この碑は神杜と関係がない。神杜の管理に属していない」 「これは民間の船乗りの碑だ、船が遭難したとき大勢の人を救った船長で、軍とは何の関係もない」 「ご覧のとおり、ここは海辺の村で海に働く者の尊敬を集めて建てられたもので、忠魂碑とは全然違うものだ」 「碑の字を書いた人は、海軍大将の肩書があるが、これを書いたときは内閣総理大臣で老齢、戦争や軍と直接関係のなかった人だ」 「これは絶対、戦争に関係のない民間人の碑で、忠魂碑と同視するのは誤りである」 たどと陳弁、懇願大いにつとめた。長くしゃべると通訳がわからなくなり勝手汰訳をしては困ると思い一節一節区切って話した。私は一生懸命だった。冷静に冷静に、落ち着いて−と自分に言いきかせていたが、やはり上気して話が前後していた。 CIEはジッと私の顔をみつめて聞いていた。通訳がどういうように訳しているのか判らないが、だんだん「そうか」といった面持ちにたり「このままでよい」となった。ジープが去って、私は碑の石段にへたりこんだ。ただ涙が出て止まらなかった。ともかくこうして「碑体」は災厄を免れたのである。 (文は「能都町史」第5巻1002〜1004頁より) |
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