神野小学校の歴史館


神野小学校の歴史
閉校時の雪の校庭
 明治8年に鶴町小学校として設立以来、平成19年3月の閉校まで131年間の歴史を刻んできた。その間、神野地区の文化の中心として、その役割を担ってきました。
 「神野っ子」にとっては何十年経っても、目を閉じればこの校舎での懐かしい思い出が心によみがえるはず。閉校にあたり、閉校式実行委員会の竹内氏は「願わくば残したかった学校、複雑な気持ちでいっぱい」と語る。
(能登町広報誌「広報のと」No.26より)

閉校までのあゆみ
道路から正門を望む
 
明治 8年 9月 鶴町小学校開校
大正7 年 4月 神野尋常小学校と 改称
昭和13年7月 校名を神野尋常高等小学校と改称
昭和20年4月 運動場を開墾(大豆.そばを植える)
昭和33年12月 学校完全給食開始される
昭和41年 1月 新校舎鉄筋二階建完成
昭和50年10年 創立百周年記念・記念碑「誠実」
平成19年 3年 学校再編成により神野小学校閉校

(閉校記念誌より)


神野小学校の概要
尋常高等小学校時代
 明治8年鶴町で民家を借り上げ、小学校を開校以来、「かんの地域」の文化の拠点として130余年の歳月を経て、2300余人の卒業生を送り出してきました。様々な困難もありましたが、地域のシンボルとしての存在を持ち続けてこられました。
 昭和41年には現校舎が落成し、恵まれた環境の中で、多くの「神野っ子」達が、学び、遊び、そしてその思い出を胸に抱きながら大きく育っていきました。
 ただ、時代の流れにより、学校再編成という苦渋の道を選択し、児童たちは平成19年4月より宇出津小学校へ通学することになり、「神野小学校」は閉校とあいなりました。
(閉校記念誌より)

在校生の一言−「神野小学校だからできたこと」
平成6年頃の神野小学校
 神野小学校は全校で30人くらいしかいません。でも、私が、神野小学校だからできると思っていることはたくさんあります。まず、わらびとり遠足。みんなで近くの山に行ってわらびやぜんまいなどの山菜をとってそれを給食で食べる。
 今年は大桐さんのおじいさんが、山菜を取らせてくれました。そんなことは、他の学校では絶対にできないことだし、神野小だからできることだと思います。
 調理実習では、自分たちが作った料理をみんなに食べてもらえます。6年生が育てたサツマイモを使って、5,6年生で大学イモとスイートポテトを作り1年生から4年生の人たちと先生方みんなに食べてもらいました。
 他にも、休み時間には、たまに1年生から6年生までみんなでいっしょに遊んだりもします。天気のいい日には、外で全校の児童と鬼ごっこをしたりします。
 私は、こんなに全校の仲がよく、お互いのことをよく分かり合えている神野小学校に6年間通えてよかったです。神野小学校が閉校になっても、今までの思い出を忘れないようにしたいです。
                     6年 粟津
(閉校記念誌より)


在校生の一言−「ササあめ」
創立100周年記念碑 記念碑の銘板
 ぼくのわすれられない思い出は、せいかつかのことです。そまたにいくとちゅうに、ササを見つけました。
 みんなで、ササであめやふねをつくって遊びました。でも、小さいササであめをつくるのがむずかしかったです。
 でも、どんどんれんしゅうしていくと、うまくなりました。この思い出は、けっしてわすれません。
            1年 山本 のぞみ
(閉校記念誌より)

卒業生の想い出−旧校舎で
昭和40年頃の神野小学校
 私の父親が小学校の先生をしていた。小学生の頃、父親に連れられて二人で神野小学校に泊まったこと(宿直)がよくある。
 夜中に学校中を見回りに行った。夜中の体育館はそんなに恐くなかったけど、真夜中の理科室の骸骨や音楽室の写真、トイレは恐かった。きっと父親も恐いので、私を連れて行ったのだと思う。
 小学校入学時は、49人一クラスで、多分今までで最も人数の多い学年だったと思う。4年生の頃、学校にプールができた。魚もいないのに何の目的で泳ぐのか不思議でならなかった。
 それまでは魚を採るために近くの川で泳いでいたからだ。5年生の頃、木造校舎を現在の校舎に建て替えた。そのため、これも木造の体育館を仕切って教室を作った。体育館で全校児童が賑やかに学習したのが楽しかった。
 学校の行き帰りは、白転車だった。その頃は、道が舗装されてなく、車もほとんど通っていなかった。手を離してどこまで行けるか友だちとよく競争した。そして、よく転んだ。冬はよくスキーで学校へ行った。だから冬はよく遅刻した。
             丹保 博 (昭和42年度卒業)
(閉校記念誌より)

卒業生の想い出−新校舎で
昭和51年頃の校舎
 6年生の頃、新しい校舎になった。嬉しかった。放送室があることにびっくりした。さっそく放送委員会に入った。白分たちの好きなように放送内容を決めて、お昼の放送で流した。
 白分たちの好きな歌やお語を流した。1,2年生のことなんか気にしなかった。ときには、白分たちでも分からない内容のものを流した。
 理科室も設備が整った。さっそく科学クラブに入った。実験など好きなことを好きなようにやらせてもらった。学芸会では、友だちと台本を書いた。子どもだけで練習して本番を迎えた。全てが子どもに任された。失敗しても許される、信頼されることが子ども心に大変嬉しかった。
 今考えてみると、その頃の先生や大人、地域の大きさというのを感じ取ることができる。貧しいながらも子どもたちを地域全体で育ててきた。目に見えないところに大事な事があるということを、おぼろげながら教えてもらったような気がする。
 小学校時代はいろいろできるようになる。しかし大事なのはそれを白分がどう生かしていくかということだ。私は地域も含めた神野小学校のおかげで、何とか今まで先生をやってこれたのだと思う。
             丹保 博 (昭和42年度卒業)
(閉校記念誌より)

最後の卒業式と閉校式
 神野小学校最後の卒業生7人を見送る卒業式は、3月19日に行われました。式では今寺伸子校長から卒業生一人ひとりに卒業証書が手渡され「みなさんが神野小学校最後の卒業生であることを誇りに思います」とはなむけの言葉が贈られました。
 卒業生は兄弟のように過ごしてきた後輩たちとの思い出や、温かく見守ってくれた先生や家族への感謝の言葉を伝え、校舎に別れを告げました。
慣れ親しんだ母校との最後の別れとなった閉校記念式典は3月24日に行われ、来賓や卒業生、地区の方、元職員などたくさんの人が集まりました。
 式典では学校のシンボルとして掲げられてきた校旗を返納し、校舎前に立てられた記念碑の除幕式などが行われました。
 自然豊かな神野の地で、強く優しい心をもった児童を育んできた神野小学校。子どもたちの新しい門出を祝うという最後の役目を終え、長い歴史に幕を閉じました。
(能登町広報誌「広報のと」No.26より)

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