■豪農 十郎兵衛 |
江戸期の柳田村は百石を越す百姓が何戸かあり千石在所と言われ、十郎兵衛は一代で千石高を持った大百姓として近郷に知られた。要因として五代藩主綱紀治世に米から商品経済の発展により消費生活が進み、藩財政が逼迫、加えて元禄4、5年の不作により、貢租の未進が相次ぎ持ち高の売買が可能になった点がある。ピンチはチャンスの好例と言える。 【奥郡第一の大村】 村制をもって誇りとする柳田村の政治・経済・文化の中心地字柳田は所帯数267、人口1,124人である。(1983年)寛文十年(1670)の村御印高が1,214石、免五つ二歩、明暦二年新田高九石、同村小物成、402匁山役、七匁漆役、三匁蝋役、十五匁川役、八匁鳥役、本米四十二石五斗、八石五斗敷借利足。これは奥郡第一の大村で、人々は千石在所と呼称し、本多家・横井家・村井家等の給人地支配が長く残った村でもあった。(坂本家文書)金山・日詰脇・重年・白山・百万脇・上谷・四谷・野田の小在所からなる。 (「柳田歴史ものがたり」120頁より) |
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■一代にして八百石を得た十郎兵衛 | |
この記述が虚偽でないことが次ぎの史料、『宝暦八年(1758)、宇出津先組村廻覚帳』(富山大学蔵・河合文書)に明らかである。当時の十郎兵衛の持高が528石でこの内の六十lを小作に請作させ、残りの200石余を三十五人の奉公人と持馬八疋、外に六、七人の日雇いで、中世の土豪顔負けの大手作り経営をしており、一ケ年間の家内の夫食籾が290俵、藩への上納口米が305石という驚くべき大百姓であった。 大地主の成長は反面禄高を失った小前百姓の増加となり、社会が疲弊し困窮人が多くなる。当時の柳田村は百姓九十八軒・頭振二十一軒で、年貢滞納の吟味を受けた五十二軒の内一石未満の零細農が二十一軒もある状態であった。 (「柳田歴史ものがたり」120〜121頁より) |
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■豪農十郎兵衛−上戸村十村真頼に訴え | |
安永三年(一七七四)柳田村田地割につき十郎兵衛干場支配願いを上戸村十村真頼に訴えている。その中に、先祖は時国村百姓間兵衛であり、御扶持人様方の仰せ付けによって、ハ十年ばかり以前に柳田村にきた者とあり、又江口九郎三郎、中の屋甚四郎、大形助六の三人の古屋敷を一区画にして居屋敷としたと十村に報告している。(現百万脇国盛孝一宅周囲)すなわち、今日より三百年以前の元禄時代にさかのぼる訳です。 ※注 田地割とは一村内の田地の地味に良、不良の差が生じた時、百姓の持高と収穫との割合が不同となるので、これを平均するため田地を割替えることを言う・・・(石川県の歴史より) 五代藩主綱紀治政の時代は米から他の商品経済の発展によって、消費生活が進み、百万石の面子にこだわり、贅沢と奢侈におぼれた一部の武家や町人を生み、藩財政が逼迫してしまった。 それを打開するために、藩内外より借銀をしなければならない状況にあった時代でした 瀬戸 久雄 (「柳田歴史ものがたり」191頁より) |
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■豪農十郎兵衛−切高仕法 |
その上、元禄四、五年(一六九一〜二)は不作に苦しみ貢租の未進百姓が大量にでき土地の売買を禁じて来た藩が切高仕法(持高を売買する)を発令し、年貢を納められない弱い百姓から能カのある強い百姓に土地を持たせることによって、年貢徴収の円滑化を計る政策を執ったのです。 この時代背景は、勿論奥郡においても同様で、宝暦一揆や逃散に追い込まれた事実が伝承されているのです。 宝暦ハ年(1758)には十郎兵衛は528石以上の高持となり、家内四十五人、日雇い六、七人、馬八疋と記録されています。そして明和二年(1765)書聖 橘 観斎 が誕生したのでした。 瀬戸 久雄 (「柳田歴史ものがたり」191頁より) ※根強い封建遺制年貢の収奪に苦しむ農民の土地の兼併化が進み、大地主が出来ると当然土地所有が零細化し、甚だしい階層分化を来す。安政四年の柳田村で三十石以上の所有者が十一人で870石、全体の七十lの土地を持ち、その反対に五石未満が108人、全体の七十六lを占める者が僅か七十六石高、六lの土地しか持たない零落ぶりで、外に三十人程の頭振がいるという過酷な有り様であった。親作小作は庇護と奉仕と言う美徳もあったが、根強い封建制は明治以降も強く残り、農地改革まで続いていたのである。 (「柳田歴史ものがたり」121頁より) |
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■橘 観斎−上方で学ぶ |
橘 観斎は明和二年(1765)十郎兵衛の長男として、今から230年前に生まれました。七歳にして、四書五経に親しみ、論語を素読し諳んじたともいわれました。 観斎十三歳の書が菩提寺照光寺(輪島市渋田)に残っています。才気煥発な能書達筆ぶりは神童のほまれ高く、近郷にその名が知れ渡ったのでした。橘家はどのようにして観斎を教育したのか興味深いところですが、十六歳の春大阪に上り、曽谷学川・趙陶斎(ちょうとうさい)・龍草廬(りゅうそうろ)・細合半斎(ほそあいはんさい)などに就いて学業に励みました。 その十一年間に京部・大阪の上方文化人、書家との交流を深め、ついに「観斎流」という雄渾(ゆうこん)な書風を確立し、一家を成したのでした。ことに趙陶斎(天明六年没)は、いわゆる「唐様」書法を伝える黄檗(おうばく)宗第十三世竺庵の門下であり、達筆の人といわれていました。 龍草廬(寛政四年没七十八)は京三条河畔に塾を開き幾内に知れた草書の達人と謳われました。 細合半斎(又は斗南1803年没)は京の人で大阪に居住した学者でした。考証を専門に多くの門人を育てたのです。晩年「方明」と号を改めています。観斎の号を「有明」とした事は、斗南の影響がしのばれます。 瀬戸 久雄 (「柳田歴史ものがたり」192頁より) |
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■橘 観斎−上方から金沢へ |
青年観斎が上方文化の中に身をおき、どのような大阪の生活であったかは今後の研究に俟つしかないと思います。 道にかなったおこないをするという意味の『与之為有方』(荘子)の言葉がありますが、「方明」「有明」の師弟の号となったのではないかと私は想像しております。大阪での遊学を終え、二七歳で金沢へ居を移し、鵞群閣(がぐんかく)を開き、多くの人材を育てたのでした。 瀬戸 久雄 (「柳田歴史ものがたり」253〜254頁より) ※橘観斎が大阪から金沢へ帰り鵞群閣塾を開き加賀藩の右筆となる。金沢の野田山墓地に橘観斎の墓が現存している。 ◆橘観斎書は八分と草書が得意であった。 (「加賀のとの書」高畠鳳外編 昭和四十九年八月十八日発行より引用) |
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