■宝暦義民 甚左衛門の碑−苦しい生活 |
今から約二百四十年ほど前の、宝暦年間にひどい凶作が続いたときのことで、神和住の真念寺過去帳(村指定文化財)代九世慶俊氏の記録されたものによると、宝暦六年五月十九日大洪水、同廿二(二十二)日大水、六月九日大水、この年の死去者七十六人、前代未聞の事に候。 当時私たちの先祖は、生活の苦しみに泣き、餓死する人が続出し、その惨状は想像出来ないほどだった。しかし、時の代官や十村(現代の村長職のような役)は、住民の味方ではなく封建的な弾圧と搾取をもって臨み、税金の代わりに、お米をたくさん要求したが、不作のため自分たちの食べる物さえ確保できない状態で、その苦しみは益々ひどくなるばかりだった。 宝暦六年七月九日、地域の人たちは、生きるためついに、中斉・神和住・小間生・久田・藤波・藤の瀬・五十里など、二十三か村の人々約千人ばかりが、十村をしていた宇出津の源五宅を襲い、各人が米を二升三升あてぶんどってきた。この出来事が、いわゆる「宝暦の百姓一揆」とか「源五騒動」と言われるものである。 高鳥毛 助九郎 (「柳田歴史ものがたり」231〜232頁より) |
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■宝暦義民 甚左衛門の碑−源五騒動 |
この一揆は明らかに、組織的、計画的なもので、その首謀者は誰かと加賀藩から足軽二十六人が差し向けられ「源五騒動」についての調べが始められた。 その時「私たちだけでやつたことで、他の人には何の関係もありません」と申し出たのが、五十里村の治平、藤の瀬村の宗兵衛、七右衛門、市、九郎三郎、藤波村の宗五郎、中斉村の甚左衛門の七人で、この人たちが騒動の責任を取り、役人に召し捕らえられて金沢の牢獄に入れられたのです。 大勢の人の身代わりとなって牢獄に向ったこの人たちの心情を思うと悲嘆と同時に、一身一家を顧みない義侠心に感涙をこらえられません。 高鳥毛 助九郎 (「柳田歴史ものがたり」231〜232頁より) |
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■宝暦義民 甚左衛門の碑−闕所(けっしょ) | ||
高鳥毛 助九郎 (「柳田歴史ものがたり」231〜232頁より) |
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■宝暦義民 甚左衛門の碑−建碑 | |
「甚左衛門殿、貴殿の生存された宝暦年間は、早天豪雨など、うち続く天災凶変の上に、封建制度のもと農民搾取、圧政の時代でありました。このようなときに、農民救済の偉大な犠牲となられたことを今にして初めて知り、慨嘆畏敬の念に耐えぬ次第であります。時の真念寺住職ですら「言語道断の事なり」と嘆いておられるほどでありますから、貴殿および同志の犠牲なくしては、農民全滅の状態を呈したことでしょう。 それから二百有余年間、なんら報いられる事無く地下に眠る貴殿と同志、犠牲者のご恩に対し、誠に申し訳ない気持ちでいっぱいであります。(後略)」 と述べられています。顕彰石碑は、神和住の真念寺鐘楼堂の横に建立されています。 (「柳田歴史ものがたり」231〜232頁より) |
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■奥能登最大の宝暦一期 |
宝暦四、五、六年と続いた凶作の後を受けた七年は、立毛も宜しく、この分では六、七分通りの作であろうと期待していた。しかし八月七日の朝に目方三匁から五匁の大雹が降り、大荒れとなって四年連続の大凶作になりました。更に害虫の発生によって被害が一層加えられ、そのため村々からの見立て願いが続きました。にもかかわらず、一切の見立て願いを不問に付する見立法度に決定したのです。 明けて宝暦八年、宇出津組下の御収納米八百石不足のことが摘発され、厳重な調査が強カに進められました。五月にはお蔵米改奉行、八月下旬には他郡御扶持人十村、越中の東海坂五兵衛、戸出又八、加賀の今井源助、奥郡大沢村の筒井内記、同次郎八、中居村三右衛門等の一行四十人ばかりが、数班で一戸ずつ村を回って口上書きをとるなど、徹底的な詮議を行ないました。この調査は宝暦八年宇出津先組村廻覚帳(河合文書)に詳しく書いてあります。 高鳥毛 助九郎 (「柳田歴史ものがたり」253〜254頁より) |
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■奥能登最大の宝暦一期−村廻覚帳 | |
藤次郎は老齢のため息子が代牢しましたが、藤次郎の死去によって息子の代牢は放免されました(宝暦義民・藤次郎の碑・十郎原総百姓建之が現存)。太郎次郎は宝暦九年七月九日、入牢十か月の辛労を経て終に牢死し、勘十郎もまた相前後して牢死しました。 勘十郎と太郎次郎の両名が、入牢のため故郷から引き立てられる時に生還も期し難い故郷の地に、涙ながらに植えたという老杉があります。寺分と五郎左工門分をつなぐ影田橋のたもとに、今もなお二百四十余年の歳月にたえて、静かに流れる清流に其の影をおとしています。 私たちの身近にこのような一揆があった事が貴重な史実として、真念寺の鬼簿帳(村指定文化財)や宝暦杉(村指定文化財)が残されています。そして宝暦義民の碑が後世の人々の手によって神和住・寺分・五郎左工門分・十郎原に建立されているのを見るにつけ、能登はやさしや土までもの言葉を素直に実感します。 高鳥毛 助九郎 (「柳田歴史ものがたり」253〜254頁より) |
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