■小間生小学校の歴史−大正 | |
第一次世界大戦(児童数191) 大正4. 村に電話が開通(児童数202) 大正6. 能登にコレラ大流行(児童数227) 大正9. 鳳珠自動車が村を走った 大正14. 電灯灯る(12月7日より) ラジオ放送始まる(児童数212) (文と写真は「閉校記念誌 飛翔」より) |
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■小間生小学校の歴史−昭和 | |
満州事変(児童数198) 昭和13. 防空避難訓練実施 全校雪中遠足(平床方面) 昭和16. 太平洋戦争開戦 国民学校令実施(児童数201) 小間生国民学校設置 昭和22. 新学制執行 村内7学校と柳田・当目・上町中学校設置 日本国憲法の執行(児童数173) 昭和25. 校舎修繕 児童会設置 耕運機が使用された 昭和32. 校舎改築工事開始 昭和33. 新校舎竣工(現校舎)(児童数225) 昭和35. 屋内体育館改築(現体育館) 昭和45. 学校給食優良校(児童数90) よい歯の学校県一位 昭和46. 健康優良学校県一位 よい歯の学校県一位 昭和47. 創立100周年記念式(4/15) 全教室に石油ストーブ設置 昭和55. 屋外プール新設 昭和58. 植物公園記念植樹に参加 昭和61. 全教室の黒板を磁石黒板に改良(児童数68) 昭和63. 和紙作り教室に改築 (文と写真は「閉校記念誌 飛翔」より) |
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■小間生小学校の歴史−平成 | ||
平成8. O-157に対応するための給食施設・設備の充実(児童数34) 平成10. 統合小学校の敷地造成工事始まる (文と写真は「閉校記念誌 飛翔」より) |
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■昭和30年後半の小間生小学校 | |
当時のクラスメイトは、男十三名、女十七名の三十人。担任は若くてやさしい竹内房子先生でした。全校児童は、188名いました。 私の入学式は、全校児童が裸足でした。学校生活は全て裸足で、十二月になると草履を履くことが許されました。それも、藁草履ではなく、竹の皮や布や蒲の茎で作った草履でなければ許されませんでした。当時、ズックは体育用で校舎の内履きとして認められていませんでした。校舎では、先生だけがズックを履いていました。 昭和三十一年三月の卒業式を前に、小学校生活を先生と話し合いました。その中で私たちは「来年からは、校内でズックや草履をいつでも履いて良いことにしてほしい」と希望を出したことを覚えています。 森屋 貞一 (「柳田歴史ものがたり」198-199頁より) |
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■もう少し一人で見ていました−大根うえ | |
12月1日にプールのところへいってみました。うちであそんでいたら、きゅうに大根がどれだけ大きくなったかしりたくなったからです。ちかくへいって見てみると、大根がなっていました。ぼくは、ぬきたいな、とおもいました。だけど、かってにぬいたらだめだから、やっぱりぬきませんでした。 でも、もうすこし見たいなとおもって、一人で見ていました。はたけにはだれもいなくて、さみしくなりました。ずうっと見ていたらつまらなくなって、うちにかえりました。 ずんずんと大きくなったらいいなとおもいました。 1年 勘屋祐介 (文と写真は「閉校記念誌 飛翔」より) |
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■なんとたくさんの木、小川も−自然いっぱい学校生活 | |
1年生の春。休み時間に2年生につれられて、学校のうらに遊びにいきました。なんと木のたくさんあること。それも小川がありました。田んぼもありました。私は、小川で遊びました。小川には石がたくさんあって、上級生の人が「さわがにがいるんだよ。」と教えてくれて、その日から小川にはまってしまいました。田んぼから流れてくる水の用水路でおたまじゃくしをとって遊びました。どじょうもいました。 2年生になって友達と回りの草を取って、にせ青汁を作って遊びました。そのことが心に残っています。学校の登下校。雨の降る日は車で送ってもらいましたが、晴れている日はお兄ちゃんと登下校しました。登下校の道はほとんどが山に囲まれているか、川のふちです。 春には山いちごをとって食べながら、夏にはこかげで休んで、秋には自然のアケビを食べて、冬には雪と遊びながら学校に行くのが楽しかったです。自然いっぱいの学校生活がとても楽しい思い出です。 6年 諸井一恵 (文と写真は「閉校記念誌 飛翔」より) |
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■「閉校によせて」 |
私が入学の時は旧校舎で正面玄関には,石川懸鳳至郡小間生國民学校と書かれておりました。私達小学生の頃は戦争でお菓子などもなく,食品も配給制で学校でもお米節約のためお弁当時間になるとまぜご飯にしてあるかどうか調べられたものです。 谷 文子 (文と写真は「閉校記念誌 飛翔」より) |
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■紙すきで卒業証書 | ||
冷水に負けず児童挑戦 同小は伝統産業の和紙作りを見直そうと、一九八九年から紙すきをして、卒業証書製作に取り組んできた。児童らは毎年五月、周辺の山からコウゾを採取。皮をはぎ、水洗いなどした後、棒でたたいて繊維をほぐし和紙の材料を作っている。 子どもたちは、木枠を使って冷たい水の中で紙をすいた。空気が入ってしわが寄るなど悪戦苦闘しながら何度もやり直し、縦三一a、横四三aの証書がきれいにすきあがると、笑顔をはじけさせていた。同村小間生地区では和紙作りを存続させる動きが出ており、墨書で最後の卒業証書を仕上げる仲谷章校長は「村に働きかけるなど努力していきたい」と話している。 (文と写真は「閉校記念誌 飛翔」より) |
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