白丸小学校の歴史館


白丸小学校の歴史
閉校時の学校
昭和10年当時
 明治八年創立、当初は高源寺のお堂から創設、昭和30年代には250人余の生徒が通ったが過疎少子化により、減少の一途をたどり、平成17年に閉校となるまで130年間の歴史を刻み、3,167人の卒業生を送り出してきた。
 閉校式には13年前に創立130年を記念して開封するために埋めたタイムカプセルも取り出され、過去の自分と対面した。
(能登町広報誌「広報のと」No.2より)

閉校までのあゆみ

 明治 8年 1月 白丸小学校創立(高源寺-仮校舎)
 明治20年 4月 簡易科白丸小学校と命名される(3年制)
 明治25年 4月 白丸尋常小学校と改称(4年制)
 明治41年4 月 6年制となり新校舎建築
 大正 6年 5月 校下民の奉仕により運動場竣工
 昭和22年 4年 新学制により白丸小学校と改称
 昭和50年 1年 鉄筋新築校竣工
 平成17年3 年 白丸小学校閉校
 白丸小学校は、明治8年1月23日に白丸村高源寺の堂宇(堂の軒)を仮校舎として創立、130年間の歴史を刻み、3,167人の卒業生を送り出してきた。
(白丸小学校110年誌より)

明治の白丸小学校の様子
明治43年の卒業式明治16年の仮校舎平面図
(その当時の)学校は、浜辺にあり、広い運動場などなかった様です。男の先生ばかり四人おられました。授業はほとんど午前中に終わり、弁当は持たず少ない教科書等は風呂敷に包んで通ったものでした。
明治33年卒業 新出 要太郎氏より聞書

(白丸小学校110年誌より)

大正の白丸小学校の様子
大正5年の卒業式昭和5年校舎平面図
 学校へ御天気の良い時は藁草履、小雨の時は下駄、大雨の時は足駄、雪の降る時はわらであんだフカグツをはき、担任の先生が手にもって振るチリンチリン(振鐘)で教室に御出でになり教壇に御立ちになると一同礼で勉強がはじまりました。
大正11年卒業 坂本 真一

(白丸小学校110年誌より)


昭和初期の白丸小の様子
昭和28年の卒業式 昭和24年校舎平面図
 朝礼をしたり、体操をしたり、学芸会もしたり、今から見れば低い天井の狭い講堂をよくよく利用したもんやね」
 「あんたは松波高等小学校へ、あんたは小木高 等小学校へ、あんたは○○へ働きに(6年義務教育だから)、そして高等小学校の授業料 銭だったね。(1ヵ月)」
昭和10年卒業 北野(新谷) かづ

(白丸小学校110年誌より)

昭和中期の白丸小の様子
昭和59年の卒業式新校舎平面図
 当時、校舎はもちろん木造でこれは自分の先代が棟梁をして建てたと聞いており、今でも旧校舎がなつかしく思い出されます。自分の小学校時代の思い出は、とにかく遊んだことばかりですねぇ・・・
 学校では、運動場でソフトボールやキックボール、講堂(今の体育館)でドッジボール、バウンドパス、卓球、たたいて馬乗り、雪が降ればスキー(学校に板スキーがあった)、体育の時間にはポートボールなどをしていた。
 また家では、かくれんぼ、缶けりひょうたん、はりつけ、軍艦、タイビン、竹スキー、パッチ、にが竹で作ったテッポウ、こま回し、たこ上げ、模型飛行機を作って飛ばしたり鳥つけ(現在は禁止されている)などほかにもいくつかあるが、今もこの原稿を書きながら一つひとつの遊びがなつかしく思い出されます。
 最後に自慢を一つ。それは校舎の掃除が大変きれいだったことです。とくに廊下や講堂はピッカピカで人の姿がはっきりと床板に映ったほどでした。
 現在の鉄筋の新校舎、時代の流れとはいえ、母校がなくなった感じで少し寂しい思いがします・・・。
昭和42年卒業 神田 幸夫

(白丸小学校110年誌より)

白丸小学校の閉校式
広報のと2005/4月号
 昭和32年から34年には265人を数えた児童数は、過疎化・少子化に伴い減少の一途をたどった。集団生活を通して成長していくにはあまりに少ない児童数となった同校は、平成17年3月31日をもって閉校することになった。
 3月20日に行われた閉校記念式典には、白丸小学校の児童、保護者、卒業生、歴代の先生など関係者約200人が出席し、学舎との最後の別れを惜しんだ。
 記念式典に先立ち、3月18日に行われた卒業式では、高塚降校長より最後の卒業生一人ひとりに、卒業証書が手渡され「白丸小学校の最後を飾るにふさわしい卒業生でした」と言葉が贈られた。
(能登町広報誌「広報のと」No.2より)

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