独立青年学校歴史館


柳田村独立青年学校の歴史
旧柳田農高校庭
 昭和7年の夏、生垣聞蔵先生が資産を村に寄付。それを基に近く施行予定の「青年学校令」による「独立青年学校」が創設。昭和10年に建物が完成。村立青年学校として12月に新校舎に移転。青年学校は義務教育を終えた青少年に社会へ出てからも広く教育の機会を与え、社会生活に必要な知識技能の修得を目的。昭和21年には学制改革により閉幕。
 
(写真は「柳田j村史」1097ページより)

学校創立と生垣聞蔵翁
生垣聞蔵氏銅像(旧柳田農高校庭)
 石川県立柳田農業高等学校の創立は、全国にも類例のない特殊の事情に基礎をおいている。即ち、時代の先覚者、柳田の医師生垣聞蔵翁が、当時の農村不況を深く憂い、これが救済と振興の根本方策は農村中堅青年の育成にあるとの信念から、翁の一代、四十余年にわたり築かれた蓄財のうち、自家生計の資として、旧高約十五石相当の祖先伝来の田地と、山林、畑地約一町歩を残すのみにて、田地約十六町歩、畑地約七町歩、山林約百町歩、住宅、病室、倉庫等七棟の時価約三十万円相当を、地方青年教育の資として村に寄付され、多数の青年を農業先進地や農民道場に派遣し、村内にも農民道場を建設する準備を進められた。(続く)
(文と写真は、「柳田村史」 1090〜1091ページより)

「生涯勉強」「医は仁術」「社会奉仕」
在りし日の生垣省三氏
 明治十五年春、一旦は大学予備校に入学したが三ヵ月で退き、進んで医師修業を志して済世学舎に入舎し、養父病死後の悲境にも屈せず、刻苦勉励、明治二十年五月、年少二十一才にして医師開業免許を取得し、草創の経営に当ること二年にして、はやる研究心を抑え難く、房州北条病院に外科及び眼科を学ぶこと一年に及んだ。更に、明治二十七年から約一年半は大阪の緒方病院に入り、その熱心な研究と誠実を認められて医長の職にも就かれ、転じて北里伝染病研究所に入り、細菌学の第一期修了生ともなられた。翁の人生信条「生涯勉強」は正に翁の生涯をかけた叫びでもあった。
 「医は仁術」を第一義とし、躬ら「社会奉仕」を行じた翁の満春院には、診療を乞うものは列をなし、病者ありと聞けば、求められずとも往きてこれを診るなど、慈父のごとく仰がれ、奥能登の名医として知られた。
 翁はもとより農村の人として、農村振興にはその本業にも劣らぬ関心をもち、熱意をもち、医業のかたわら、荒地の開墾によって耕地を造成し、水利を開発し、貧農の患者に接することの多いことから、小作問題の改善にも意を用い、植林に対する専門的造詣も深く、進んで造林に当り、「協同勤労」して農村の前途を打開することをこそ生涯の念願とされたものである。(中略)
 昭和十三年七月十六日、翁は七十二才の生涯を閉じられたが、翁の「生涯勉強、協同勤労、社会奉仕」という処世訓は、本校の教育方針に脈うって伝統している。 
(文は、「柳田村史」 1092〜1093ページより)

記憶から遠ざかる柳田村立青年学校(社会教育の変遷)   
中塚重耕氏
 今年は村内の小学校が統合し、新学期から村立柳田小学校として新たにスタートする。各地域ごとに教育、文化、伝統を学び、幼なじみの小学校読本、ハナ、ハトや、サイタサイタを習った小学校が無くなることは、老の身として誠に寂しい。
         ◆社会教育の変遷
 昭和の初めに、柳田小学校に併設されていた公民学校は、実業教育を主体に公民教育を行っていました。高等科に行かない生徒を対象に、専任教員二名くらいと小学校の教員が兼務しての授業でした。
 時あたかも、生垣聞蔵先生が農村青年教育のため、莫大な資産を村へ寄付されたのが昭和七年の夏でした。当時農村の不況は深刻で、村でも中等教育を受ける者は少なく、地主の子弟が僅かに松任農学校や輪島中学校に進学した時代でした。
                  

(「柳田歴史ものがたり」248ページより)


記憶から遠ざかる柳田村立青年学校(創設に踏み切り)  
柳田農業高等学校時代 酪農(「柳田村史」1102ページより)
 早速村では、この生垣資産を如何ように生かすべきか、
当時原田村長は、村議会をはじめ、各界に意見を聞き、
近く施行される「青年学校令」による農民道場的「独立
青年学校」創設に踏み切りました。
 場所は白山神社の御旅処付近の田畑を校舎敷地とし
て建設に取りかかりました。しかし青年学校令はいまだ公
布されず、独立公民学校として柳田安養寺の御堂を仮
校舎として発足したのが昭和十年五月でした。校長の前
田資知氏は、石川郡額村出身で、当時農村教育の草分け的存在の名士で
した。
 次席の中本信長氏をはじめ堂前助四郎、中小田義信、向芳子の各先生
でした。
            
(文は「柳田歴史ものがたり」248ページより)

記憶から遠ざかる柳田村立青年学校(誕生) 
柳田農業高等学校時代 寮生活(写真は「柳田村史」1101ページより)
 学校の新築工事も順調に進むとともに、青年学校令も施行され、村立青年学校として開校したのは昭和十年八月二十八日で、安養寺の仮校舎でした。校舎も出来上がり、木の香も新しい学舎に移転したのは十二月二十三日で師走の忙しい時期でしたが、職員生徒一同歓喜に満ちていました。
 いよいよ青年学校としての教育方針も固まり、先生方も増員され半部直三、関戸淑子各先生が着任され、中小田先生は転任されました。それは昭和十年の秋から翌十一年の春で、村も国も平和な時代でした。
 青年学校は、義務教育を終えた青少年に社会へ出てからも広く教育の機械を与え、教養を深め、心身の鍛練、職業の訓練、軍事教練、それに社会生活に必要な知識技能を修得させようとするものでした。それまでの青少年社会教育は、公民学校や青年訓練所で行っていましたが、これを統合して単一の青年教育機関として発足しました。
 ちなみに当時の学級編成は次の通りです。

                 科   男子 女子       入学年齢
普通科  二年  二年(全日制) 十二歳(尋常卒)
       専修科  一年  一年(全日制) 十四歳(高等小卒・普通卒)
  本科 五年(定時制で週一)(高等小卒・普通卒)


 特に専修科男子は寮生活であり、生垣興農精神を体し農民精神の修得に日夜精進して、生和園の基を築きました。この苦難の時代を生徒と苦楽を共にした前田校長も、昭和十二年四月に石川郡米丸正学校長に転任され、柳田小学校長山下甚次郎氏が校長事務取扱になって兼任されました。

中塚 重耕

(文は「柳田歴史ものがたり」248〜249ページより)

記憶から遠ざかる柳田村立青年学校(石川県柳田農学校の開校) 
柳田農業高等学校時代 キューリ栽培(「柳田村史」1103ページより)
 それは青年学校令によって社会公民教育を施すのが主体で、中等教育ではありませんでした。そこで村当局では、生垣興農精神の発揚は農学校への昇格として、櫻井代議士や吉国県議を介して生駒石川県知事への陳情を重ね、遂に昭和十二年五月に石川県柳田農学校が官報で告示されました。続いて松原正太郎氏(飯田高女校長)が農学校長に発令されました。また、柳田村立青年学校は再び農学校に併設されることになり、農学校長が青年学校長を兼任したので、独立青年学校は僅か二年で終幕となった。
 私も昭和十二年四月に柳田村立青年学校普通科に入学したが六月から柳田農学校農科生に早変わりした。先生は青年学校の先生方で、秋に池田教頭先生が岡山県から赴任された。当然、青年学校の生徒は本科(定時制)と女子専修科のみとなり、翌十三年から普通科と男子専修科は廃止され、農学校農科と専修科に衣替えしました。
 翌十三年春に堂前先生、関戸先生が転任され、代わりに新任の坪井ふじ先生が着任した。農学校へは開敷先生や武藤先生、水野先生が赴任して青年学校と兼任しました。 
(「柳田歴史ものがたり」249ページより)

記憶から遠ざかる柳田村立青年学校(再び独立青年学校) 
石川県立柳田農業高等学校 全景(写真は「柳田村史」1099ページより) 昭和十五年新学期から柳田農学校は県立に移管されて、学級編成も高等小学校卒業生が入学年次になった。それに伴い、青年学校も当然独立せざるを得なくなり、白山神社番場付近の河原にあった「家畜市場」の建物を村が借り受け、即席校舎としてスタートした。(現在の家畜保健所跡地)学校長にそれまで長い間次席として活躍した中本信長先生が就任しました。先生は、青年教育と農業技術が専門であり、県下でも右に出る者がいないくらいの社会教育者でした。軍事教練指導員は田畑金太郎氏、宮前栄蔵氏、上井久治氏、宮平孝雄氏の諸氏で支那事変に従軍した兵でした。(昭和十六年当時) (中 略)
 昭和十九年の新学期に校長が交代しました。栃平校長の後には、後に村長になる阿知地五平氏(小間生)が着任して一層の学校充実に努めました。しかし昭和二十年八月に戦争は終結し、徐々に軍人は各地より復員し、村でも活気が戻り、結婚ラッシュが相次いだ。また、学制改革が行われ、青年学校は昭和二十一年限りで終幕となった。この十二年間の学校歴史の最後に思わぬ事故が発生した。武田美煕榮さん(五十里)と浅見きくいさん(柳田)が授業を終えて帰るときに校舎の屋根からの雪崩に遭い、尊い命を失いました。二人のご冥福をお祈りし、柳田村立青年学校史にかえます。
 中塚 重耕

(文は「柳田歴史ものがたり」249ページより抜粋)

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