再生への魁 臼淵磐館


戦艦大和と共に沈んだ臼淵 磐大尉
大和の最後の瞬間
 能登町当目出身の海軍士官、臼淵清忠(せいちゅう)氏の長男として、大正12年8月に東京青山で生まれる。
 海軍兵学校を卒業(71期)し、昭和19年10月に旧日本海軍連合艦隊の戦艦大和に副砲射撃指揮官として乗艦。昭和20年4月7日、沖縄特攻中の東シナ海で米軍機の攻撃を受け戦死した。
 享年21歳。戦死後、少佐。
(文は能登町広報誌「広報のと」No.52より)

(写真はフリー百科辞典「ウィキペディアWhikipedia「大和(戦艦)」より)

戦艦大和と共に沈んだ臼淵 磐氏
村中家の土蔵の土窓
解体された村中家の土蔵
(写真は唯一残った土蔵、損傷箇所多く解体された)

 戦没者名の中に本村出身の臼淵磐さんの名前を見つけました。
太平洋戦争が終わって五十一年目をむかえ、もう戦争について知っている人は少なくなって、私も戦争を知らない世代です。戦艦『大和』についても名前を知っている程度で、『大和』の悲劇は本での知識ですので、ご存じの方は教えてください。
 海軍大尉臼淵磐さんのお父さんは日露戦争等に活躍した海軍少将の臼淵清忠氏で、当目の村中カ(つとむ)氏の弟で成人後は東京に住んでいました。磐さんは大正十二年に東京で生まれ、海軍兵学校を卒業し、昭和十九年十月『大和』に配属され、副砲分隊長兼副砲射専指揮官として着任し、十一月大尉に昇進し、士官室長となったそうです。
 そして戦雲いよいよ暗くなって四月一日沖縄に米軍上陸となり、片道だけの燃料で『大和』は山口県徳山沖から四月六日出港し、七日鹿児島県の坊之岬の西南で沈み、乗員三、三三二名中生き残ったのは二六九名です。臼淵磐さんも二十一歳七ヵ月の生涯をとじ、戦死後少佐に昇進し、本村の戦没者の中では最高位です。この話は加門松太郎さんにお聞きし、埼玉県にお住まいの村中三於さんの資料を活用させていただきました。
                                  仲谷 由美

(「柳田歴史ものがたり」192〜193頁より)

特攻死を控えて
戦艦大和
 大和の沖縄突入作戦が決定的になると、兵学校出身士官と学徒出身士官の間で特攻死の意義についての論争があった。若手士官室を統率する室長であった臼淵大尉は「敗れて目覚める」の言葉で騒ぎを収束させたという。
 昭和20年3月28日、呉港を出港した大和は、4月6日に海上特攻の命令を受け「一億総特攻の先駆け」として沖縄に向け出撃。翌7日に米艦載機の波状攻撃を受けて、午後2時23分に鹿児島・坊ノ岬の西方200キロ余りの東シナ海に沈んだ。大和への最初の命中弾は、臼淵大尉が指揮する後部副砲射撃指揮所であり、大和の最も早い戦死者となった。
 「臼淵大尉、直撃弾二斃(タオ)ル。知勇兼備ノ若武者、一片ノ肉、一片ノ血ヲ残サズ 死ヲモッテ新生ノ目覚メヲ切望シタル彼、真ノ建設ヘノ捨石トシ捧(ササ)ゲ果テタル肉体ハ、アマネク虚空二飛散セリ」
「戦艦大和ノ最期」より

(記事は「広報のと」52より)

(写真はフリー百科辞典「ウィキペディアWhikipedia「大和(戦艦)」より)

吉田満の「戦艦大和の最期」-感動的なエピソード
 吉田満の『戦艦大和ノ最期』には、戦死を控えた臼淵の心境を伝える感動的なエピソードが記されている。
 「大和」の沖縄突入作戦が決定的になって来ると、若手の少尉や中尉たちの間で「特攻死」の意義づけをめぐり激しい論争が戦わされた。学徒出身組と兵学校出身組の青年士官とは、死を覚悟しつつ、おのずと「特攻死」に対する考え方にも相違があった。
 「祖国のために散る、それはよく解っている。しかし、いかに特攻精神で突っ込めといわれても飛行機の護衛もなく、燃料も片道ではただの犬死ではないか」
 学徒出身組の士官たちは、せめて納得の出来る死でありたいと願う。それに対し、兵学校組の士官たちは、
 「国のため、君のために死ぬ。それ以上に何が必要というのか。もって瞑すべしではないか」
 と主張した。
 ついには学徒出身組の「腐った性根を叩き直す」と、鉄拳の殴り合いが始まった。そのとき、若手士官室を統率する兵学校出身の臼淵大尉は、
 「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ
 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ今目覚メズシテイツ救ワレルカ
 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」
 臼淵は日本が新しく生まれ変るための先導になって散るのだと、諄々と静かな口調で説得した。この言葉が若手の士官たちに伝えられると、出撃以来の「特攻死」論争は消え、一致して戦場に臨んだという。
(「女たちの大和」より)


敗れて目覚める
顕彰碑 碑文
 当目地内の旧家跡で4月7日、高さ1.5b、幅2bの顕彰碑が除幕された。顕彰碑には上の「進歩のない者はー」という13行の言葉が刻まれている。
 この言葉は、数少ない戦艦大和の生き残りである吉田満さん(故人)の著書「戦艦大和ノ最期」で、臼淵磐大尉が残した言葉として紹介されている。
 「後世に残る言葉を残した地元ゆかりの偉人として、その遺徳を伝えていきたい」
 との思いが顕彰碑に込められている。
(能登町広報誌「広報のと」No.52より)

大和(戦艦)-最期の時
 4月7日12時32分、鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、艦爆数機が急降下、1機撃墜、中型爆弾(250キロ爆弾と思われる)2発を被弾。後部射撃指揮所が損壊した(この時に副砲も損傷したという説があるが、後年の海底調査ではその形跡は見られない。また、一発が大和の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある)。特に後部射撃指揮所、つまり後部艦橋はオノで叩き割られたように跡形もなく破壊された。建造当初から弱点として問題視されたこの後橋及び、副砲周辺部の命中弾による火災は沈没時まで消火されずに燃え続けた(攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している)。以後14時17分まで、米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾やロケット弾を装備して出撃した。攻撃機の中には、大和と米空母の間を3往復したものもいた。主な被害状況は以下のとおり。
  • 12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。
  • 13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障(1345中央に復元固定)。
  • 13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。
  • 14時00分 中型爆弾3発命中。
  • 14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。
  • 14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
  • 14時17分 左舷中部に魚雷1本命中(右舷後部という意見もある)、傾斜増す。
14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員上甲板(総員退去用意)を発令
(記事はフリー百科辞典「ウィキペディアWhikipedia「大和(戦艦)」より)

大和(戦艦)-撃沈
後部副砲位置
(上図中、赤丸部分が後部副砲位置)

 横転(または転覆)は14時23分。大爆発を起こして艦体は2つに分断されて海底に沈んだ。爆発の原因は船体の分断箇所と、脱落した主砲塔の損傷の程度より、艦内炎上で拡がった火炎により、2番主砲塔のバイタルパート部の火薬庫が誘爆したためとされる。爆発は沈没してからという意見と、沈没前という意見と両方あるが、転覆後という点では一致している。なお、戦後の海底調査で、機関部の艦底にも大きな損傷穴があることが判明し、転覆時にボイラーも爆発したという説もあるが、沈没前に命中した魚雷が傾斜した艦底に命中した穴である可能性も指摘されている。大和沈没により古村啓蔵少将は一時は作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は作戦中止を司令部に要求し、生存者を救助のうえ帰途についた。
(記事・図はフリー百科辞典「ウィキペディアWhikipedia「大和(戦艦)」より)

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