親思いの阿武松館


第六代横綱 阿武松
阿武松の切手
 第六代横綱阿武松緑之助は、1791年、七海村(現・七見)に生まれました。身長173p、体重135sで色白の肥満型、力がこもると全身が真っ赤に染まり、見事な容姿であったと伝えられています。長州毛利候のお抱え力士であった阿武松のしこ名は、萩の名称「阿武の松原」に由来するものです。
 初土俵以来、一場所も負け越したことはなく「稲妻」「緋緘(ひおとし)」とともに「文政角界の三傑」と呼ばれました。
 現在、生地である七見には高さが5mに達する「横綱阿武松」の石碑が建てられており、この地方を巡業する力士は必ず立ち寄り参詣するそうです。
(文は能登町広報誌「広報のと」No.25より)

阿武松の生家
冊子 阿武松表紙
 阿武松の出身地や生い立ちについては、「阿武松の生い立ち」のほか要所にふれてきたので、ここでは確かな史料もないが生家そのものと、阿武松の生母や妻、すなわち当時の家族について考察することにしよう。
 阿武松は、寛政三年(1791)に仁兵衛の子として生まれたとされている。生年を記した当時の史料はないが、初土俵や入幕、大関昇進、横綱免許、残年次などの記録に残る年次から逆算して異論はない。
 実父仁兵衛については知るよしもないが、降って萬延元年(1860)庚申十月十四日付の肝煎久左衛門による「七海村御年貢米人々取立帳」(七見中田久信旧蔵・能都町所蔵)に、「仁兵衛持高二升(年貢米)五石六斗四升七合七勺」と記されているのが、まさしく阿武松の生家である。当時の奥能登で持高二升を有することは"百姓面"を与えられていることで、七海村の家数六十三人中、百姓面を所有する三十三人に加えられている。
 多くの相撲史に「貧農の倅として生れ」とあるが、それは当たらない。もとより富農ではないが、約半数の百姓面に名を連らねていることから一人前の百姓であったといってよい。
(文は「能都町史」第5巻907頁より)

阿武松の生母
 生母についても詳しいことはわからないが、玉泉院(東京都江東区平野)にある阿武松の墓に「初代母 清浄院妙持日身大姉天保十一庚子年五月廿九目」とあり、過去帳にも同じく書かれてある。そこで石川県教育会鳳至郡支会『鳳至読本』(昭和十三年刊)に「阿松緑之助」と題し、今から百三十年程前、鵜川村の七見に長吉といふ大変相撲が強い若者がいた。どこの相撲に行っても、長吉に及ぶ者は一人も無かった。
 しかし、長吉は更に江戸へ出て修業を積み、立派な関取になりたいといつも考えていた。げれども、長吉には一つの心配があった。それは、眼の不自由な母をただ一人家に残して旅立たなければならないことであった。
 それを思えば、日頃の固い決心も挫げ勝ちであったが、えらくなって、母を喜ばせるのも孝行だ、と思って長吉は或目のこと、「きっと立派た相撲取になって、帰って参りますから、どうか江戸へ相撲の修業に出して下さい。」と母に頼んだ。けなげな母は、長吉の願を快く許した。数日の後、長吉は母に別れを告げて、なつかしい我家を後にした。     (中略)
 親思いの阿武松は、母を江戸に迎えて孝養を尽くし、又弟子達もよくかわいがったということである。
 とあり、阿武松が母との約束どうり立派な関取になって、眼の不自由な母を江戸に迎えて孝養をつくしたということは、阿武松の墓に"初代母。として名を連ねていることからも、単なる逸話として見逃す訳にはいかない。
(文は「能都町史」第5巻908頁より)

土俵上の足跡/小柳常吉・清蔵・長吉 時代
小柳常吉 時代 1815〜
 文化12年03月 新序          預
 文化12年11月 東序ノ口14枚目   6勝0敗
 文化13年02月 西序二段15枚目   8勝0敗
 文化13年10月 西三段29枚目    7勝1敗
 文化14年正月 西三段16枚目    7勝2敗
 文化14年10月 西三段 6枚目    7勝2敗
 文化15年02月 西三段 3枚目    5勝3敗
 文政元年10月 西三段 2枚目    8勝1敗
小柳清蔵 時代 1819〜
 文政02年03月 西幕下二段20枚目 9勝1敗
 文政02年11月 西幕下二段17枚目 8勝1敗1預
 文政03年02月 西幕下二段15枚目 3勝1敗1預
 文政03年10月 西幕下二段10枚目 7勝1敗1無
 文政04年02月 東幕下二段 7枚目 8勝2敗
 文政04年02月 東幕下二段 7枚目 8勝2敗
小柳長吉 時代 1822〜
 文政05年正月 東幕下二段 2枚目 6勝2敗1分1無
 文政05年10月 東前頭 7枚目    6勝3敗1分
 文政06年02月 東前頭 5枚目    4勝2敗1無
 文政06年10月 東前頭 2枚目    7勝2敗1分
 文政07年正月 東前頭 2枚目    8勝1敗 優@
 文政07年10月 東小結        6勝2敗
 文政08年正月 東小結        8勝2敗 優A
 文政08年10月 東関脇        6勝2敗
 文政09年正月 東関脇        5勝1敗1預
 文政09年10月 東大関        8勝1分 優B
(「能都町史」第5巻895〜901頁より)


土俵上の足跡/阿武松緑之助 時代
阿武松緑之助 時代 1827〜
 文政10年03月 東大関       4勝1敗1預
 文政10年11月 東大関       5勝0敗 優C
 文政11年03月 東大関(横綱)   2勝3敗1分1預
 文政11年10月 東大関(横綱)   7勝1分
 文政12年10月 東大関(横綱)   6勝2分1預
 文政13年03月 東大関(横綱)   7勝1敗1預
 文政13年11月 東大関(横綱)   3勝1敗2預
 天保02年02月 東大関(横綱)   4勝2分
 天保02年11月 東大関(横綱)   3勝0敗
 天保03年11月 東大関(横綱)   7勝1敗1分
 天保04年02月 東大関(横綱)   5勝0敗4分
 天保04年10月 東大関(横綱)   2勝2敗3分1預
 天保05年正月 東大関(横綱)   6勝1敗2分
 天保05年10月 東大関(横綱)   5勝3敗1分
 天保06年正月 東大関(横綱)   7勝0敗2分 優D
 天保06年10月 東大関(横綱)   4勝2敗2分
                この場所限りで引退。45歳
 (「能都町史」第5巻895〜901頁より)

阿武松使用の石印
阿武松の印
@阿武松石印
 印面は小判形で、縦4.5a、横2.5a、鈕高3.2a。印文は行書体の陽文(朱文)で、「阿武松」と彫り、周囲に細い二重輪郭を彫出。鈕の上部から側面の上方にかげて葡萄文が彫刻されている。
A阿武之松石印
 印面は正方形で、縦・横ともに2.2a、鈕高1.6aで上部を水平に切る。
印文は篆書体の陰文(白文)で、「阿武之松」と彫られているほか、鈕部には装飾や文字はない。
B最手(撮)横綱石印。

 印面は長方形で、縦3.1a、横1.8a、鈕高3.3aで上部を蒲鉾型とする。印文は篆書体の陰文で、「最手(撮)横綱」と「撮」を「最」「手」の二字に分けて彫り、鈕部側面に「余倣水滸人数凡刻一百八方此其一」「遇所」と行書体に刻まれている。

(文は「能都町史」第5巻895〜901頁より)

阿武松の手形
阿武松の手形
 掛幅装。厚手楮紙で、手形紙面の縦二二a、横三五・五a。向かって右に墨で左手形が捺されている。手の平に比較して指は短いが、肉の厚そうな感じで、指紋もはっきり出ている。
 手形の左に、「能州七尾之産 阿武松緑之助手形」「君か世や見へすに見へし松乃風 十二代玉かき(印)」と、十二代玉垣の筆になる墨書がある。能州七尾之産とあるが、七見の誤りであることはいうまでもない。
(文と図は「能都町史」第5巻947頁より)

横綱阿武松碑
阿武松碑
 石灰質細粒砂岩(海石)の扁平な大自然石で、碑高435a、幅236a、台石(安山岩自然石)を含む総高515aを測る大きさ日本一の相撲力士碑である。
 表面周囲に自然石ままの縁をつくり、彫り込んで磨いた碑面の中央に、長州藩毛利家の後裔毛利元昭氏の揮毫で、「横綱阿武松碑 公爵毛利元昭書」と彫られてあり、背面に「昭和十二年五月建立鵜川村」と刻まれている。碑の前に近年設置された花陶岩の花立に「佐々木」と刻まれている。
 この碑は、立山連峰を遠望する風景崔美な海岸に建てられてある。昭和11年から同12年に九百十円(予算一千円)をかけて鵜川村が建立したものである。
(文は「能都町史」第5巻947頁より)

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