村史にみる食生活


食生活改善の歩み
 この村の食生活は、明治の末頃まで、朝と昼は”かいのごめし”、夜は”だんごをまぜた粥”が主食というひどい粗食であった。正月の餅も、糯(もち)米だけの白い餅が食べられるようになったのは、大正の初め頃からのことである。しかし、これは柳田村に限らず、奥能登の農村はみな同じ程度であった。
 みんなが充分に食べられなかった時代であるから、その頃の嫁は、いつも空腹をがまんしていたと、村のおばあさん達は若い頃の思い出を語っている。ひとつまみほどの米しか入っていない粥を食べて寝るので、夜中に空腹で目がさめ、仕方がないので、庭の柿をとって食べてやっと眠れたこともあるという。お米の余っている現在では、想像もできないような話であるが、これは、今から四十〜五十年前までのことである。
 副食は、自家生産の野菜や、この地方に豊富な山莱・野草などが主なもので、動物性食品を購入するのは、祭・盆など年に数回であった。それは、どこの農村でも同じであるが、現金収入の少ない農家にとって、自給自足を原則とするのは当然なことであった。だから平常のおかずは、漬物と、大根などを沢山いれた実の多い味嗜汁であって、それも忙しいので、一度に沢山煮ておいて、食事ごとにあたためなおすので、風味もおちるものであった。
 当時のひとびとの楽しみは、祭や"ものごと"の時に御馳走を腹一杯食べることで、行事のある時は、平素の粗食に比べて、大変な御馳走をつくったのであった。
 一般には、以上のべたような食生活がおこなわれたが、村には地主・自作・小作というように、経済的に段階があり、階級によっても食事内容には差があったので、以下の各項目について、その点にもふれるつもりである。
 食生活の上で、経済的な階級に関係なく、皆が同じように窮乏生活を送ったのは、第二次世界大戦の戦中戦後における食糧難の時期であった。その当時は、米の供出がきびしくて、家探しまでして米を供出させたので、地主も小作人も同じように、まぜ御飯や、野草を食べて飢をしのいだのである。その後の農地改革により、小作の窮乏から解放されたことと、農薬などによって米の収量も増加したことは、経済的な余裕をうみ、生活改善への意欲のもととなった。
 それまで、炊事には流しと、いろりを往復していたが、台所を働きやすく改造すると、煮物ばかりだった調理法も変化するようになる。その上、社会教育が進んで、婦人学級などで主婦が栄養の知識を深め、それまで多かった精進日も、発育盛りの子供には動物性蛋白質の不足をきたすことから、夕食だけは精進にしないなどの工夫がされるようになった。また、調理技術もいろいろと学んで、日常食に活かされるようになったのである。
 最近は交通の発達によって、不便な場所にいても、何でも入手できるようになったため、食生活も大きく改善されることになった。現在、献立は子供中心にたてられることが多く、肉料理・サラダ・カレーライス・インスタントラーメンなどが好まれている。
(文は「柳田村史」911頁/第二節 食生活より)

主食
米を作りながら米を食べられなかったのは、この村に限らず、日本の農村はどこでもそうであったが、明治の終り頃までの能登では特にひどいものであった。
 主食となっていた"かいのごめし"とは、しいな(実のいらない軽い籾)を妙り鍋で妙り、臼で搗いてこまかくし、それをふるいにかけて、粉だけをより分け、米飯にまぜたものである。冬の間に一年分の"かいのご"を作っておく習慣であった。そのまぜ方は、ひどい家では米が一割で、かいのごが九割であったという。普通は五割ぐらいであったらしいが、木杓子ではよそえないので、茶碗で汲んで食べた経験を話してくれた老人もいる。地主であっても"かいのごめし"を食べていたのであって、米とかいのごとの割合が、小作の人よりいくらか米が多いという程度であった。
 朝と昼は"かいのごめし”夜は"粥"というのが当時のひとびとの主食であったが、粥にもいろいろなものをまぜた。
   かきがゆ=そば・こごめの粉を粥にまぶしたもの。
   だんごがゆ=そばだんごや、こごめのだんごをまぜたかゆ。
 かいのごめしは、大正になってから、食べる人は少なくなり、中頃にはほとんどつくらなくなって、だんごおよび麦・稗・粟・山菜・野菜などをまぜた飯が食べられるようになった。まぜる量や質は季節、労働の軽重によって異なるが次に数例をあげる。
 ジョーボめし=山にあるジョーボの木の若葉を茄で塩味をつけて、炊きたてのご飯にまぜたもの。
 ヨモギ、オオバコのまぜご飯=ヨモギ、オオバコを茄でておき、ご飯が沸騰した頃に釜の中に加えて炊きあげる。オオバコめしはおいしいものであった。
 あげだんご=糯(もち)米と粳(うるち)のこごめを同量にまぜて粉にし、湯でこねてだんごにまるめ、茄でたもの。きなこをつけて食べる。もちろん、きなこに砂糖はまぜていない。
 だんご汁=小豆を煮て、その中へだんごを入れたもの。
 ソバだんご=ソバ粉をこねてのばし、庖丁で切ったもので、厚くて太いソバであった。
 キビだんご=キビの粉をまぜただんごで美味であった。
 ソバいがき=味噌汁の中へソバ粉をおとして、かきまぜたもの。
 大根めし=大根をさいの目にきざんで、米とともに炊いたご飯。味はよくない。
 けんぞめし=けんぞとは豆腐をしぼったおからのことで、おからをまぜたご飯である。大根めしよりも、もっと食べにくいものであった。
 このように米は節約していたけれども、不作の年には次の秋の収穫まで待てなくなり、早刈りして稲こきをし、乾かす暇もないので、もみを妙りたたいてもみがらを取って米にして、間をつなぐこともあった。また、どうにも足りない時は借りるが、"夏米二割"といって、夏借りた米を秋に返す時は、二、三ヶ月間なのに二割も利息を払わなければならなかったので、翌年にはまた食べる米に不足することになり、しまいには大切な田を売らなければならなくなる人もいた。
 小作のひとびとが現在のような白米のご飯を平常食べられるようになったのは、戦後の農地解放がおこなわれてからである。
(文は「柳田村史」913頁/第二節 食生活より)

副食
 平常のおかずは味嗜汁と漬物であったが、味嗜汁でも好んで食べられたのは、"すりわり”である。これは大豆を水につけておき、それをすり鉢で半ずりにして味嗜汁に入れるもので、豆腐を作るより簡単でおいしいものであった。その他に、大根や大根葉を"イシリ"(調味料の項参照)で煮たものや、ふろふき(大根を茄でて"イシリ"または胡麻味嗜をつける)などがよく食べられた。
 栽培する野莱は大根が主であったので、平常の副食は大根と大根葉ばかりであったという。それは冬の積雪量が多く、積雪期間が長いこともあって、野莱作りが盛んではなかったことによるものである。昔から作られていたものは、ダイコン・カラシナ・カブラなどで、明治末期になって、ナツイモ(ナシィモとも呼ぶがジャガィモのこと)・コイモ(サトイモ)・ニンジン・ゴボウ・カボチャ・サツマイモ・キュウリ・ナスが作られるようになり、大正の終り頃には赤ナス(トマト)を作る家もたまにあった。トマトは現在のものと種類が違い、臭くて食べられなかったようである。トマトが一般に作られるようになったのは、終戦後のことである。
 昭和になってから、ハクサイ・キャベツなども作られるようになったが、野莱の自給は充分でなく、山莱などがおおいに利用された(山莱の項参照)。
 現在もスイカ・トマト・タマネギ・時期の早いキュウリ・ナスなどを購入している状態である。
 魚介類についてみると、この村は海岸から八キロも離れた山地であるから、海産魚は塩ものが主であった。生魚を食べるのは年に二、三回で刺身は祭の最大の御馳走であった。大正時代には宇出津、曽々木から売りにきたり、また買いに出かけるようになったが、売買は金銭ではなくて、米を主とする農産物との物々交換であった。例えば売りにくる呼び声も、"モダツ一升いらんか”というものでモダツを米一升と交換しませんかという意味であった。
魚は豊富であったが、一般にはイワシ・サバが主なものでブリ・タラなどはめったに食べられなかった。正月に宇出津からブリを一尾買ってきて食べることができたのは、地主など村のごく一部の階級だけで、普通はブリカゲ(ブリのエラ、内臓)を買ってきて、かいやき、かげみそにして食べていた。しかし、それさえも食べられる人はよい方で、ブリカゲより安価なタラのザン(頭、内臓)を焼いて食べる人も多かった。
 昭和の初め頃までは、漁獲したブリの内臓をぬいて各地へ輸送したため、エラ、フト(内臓)だけを塩漬けにして売っていたのである。これをブリカゲといい、串にさして焼いたり、エラを一枚ずつはがして焼いたりしておかずにした。特に喜ばれたのは、"かいやき&”である。
 その作り方は、ブリカゲをたたいてこまかくし、麹、塩、糠を加え、うすければ味噌を加えて二、三日おく。
 それをアワビの殻に入れ、いろりの火で焼いて大根おろしをまぜて食べるのである。アワビの殻は家族の人数分は確保してあったが、アワビをよく食べたので殻があったわけではなく、殻は貰ったり拾ったりして入手したもので、何回でも使うことができたから都合がよかった。
その後、交通が便利になり、ブリは一尾のまま、カゲをぬかずに輸送するようになったので、ブリカゲは入手しにくくなり、ミネラル、ビタミンの豊富なこの調理法もできなくなった。
 川魚は村を流れる町野川、上町川に豊富で村人の蛋白質源であった。種類は、マウナギ、ウナギ、ミミズウナギ、ゴリ−中斉。アユ、ウグイ、ゴチ(ゴリ)、ヤツメウナギ、コイ、フナ、マス−上町、柳田。アマメ、ゴリ、ウグイ−上河内。その他どこにでもドジョウ、タニシがいた。うなぎは手拭いを手に巻いて滑らないようにして捕えたという。堰堤ができてからウナギはのぼってこなくなり、また、戦後になって農薬のせいでゴリもほとんどいなくなったが、ほかの魚は現在でも捕れる。公害で川が汚されている地方が多い最近であるが、この村の川は魚が棲んでいるほどきれいである。このままの川を将来も残しておきたいものである。
次に獣鳥類についてみると、明治頃までこの辺にはシカがいて槍を使ってシカ狩りをしたということである。
 それで農家でも槍を持っていたわけで現在も残っている。オオカミも出るので危険だったから、夜出かける時は仕込杖を持って歩いたほどであった。だから、ウサギ、テン、ムジナなどもたくさんいて、とらばさみや、わなをしかけて捕獲した。その際、肉は食用にはしたが、捕える目的は毛皮を得ることであった。
 ウサギを捕える方法のひとつに、なぐり(棒)を飛ばすのがあり、これは飛ぶ棒の影と音にタカがきたかと驚いてウサギが穴にもぐりこむので、その足を?んでひっぱリ出すのである。ムジナは穴に煙を入れていぶり出したり、イヌをけしかけて捕えた。イヌは現在ほど数はいなかったがみつけると、たいていは食用にした。特にアカイヌは寝小便の薬といわれ美味であったという。しかし、さすがに殺すのは気持のよいものではなかったそうである。ネコを食べた人もいたということである。マムシ、シマヘビは薬といわれ、当然、食用となっていた。
 その他に、キジ、ヤマドリもわなをしかけたり、猟師は鉄砲を使ったりして捕獲し食用としていた。
 牛豚肉は、最近までめったに口にすることはなく、鶏肉も同様であった。鶏卵さえも病人以外は食べることはなく、薬になるというので結核を患っている人はひそかに食べたが、その殻をかくすのに苦労した話も残っている。現在も、ムジナ・ヤマドリ・ウサギはいるが、捕えて食べることは、ほとんどない。

(文は「柳田村史」915頁/第二節 食生活より)

山菜・野草

この村では、野莱の栽培は種類も量も少ないので、山に豊富に自生する山菜や野草を採集してその不足を補い、同時に食膳に季節感といろどりをそえていた。よく食用とされたのは次のようなものである。
 フキノトウ  ヨモギ  ワサビ  フキ  ノゲシ  ミツバ
 ツクシ  ワラビ  ヤマゴボウ  セリ  ゼンマイ  ヤマウド
 ヨメナ  カタハ  ヤマイモ  スベリヒュウ  ノビル  タケノコ
 クズ(根の澱粉をとる)  ウラジロ(餅にまぜる)
 リュウブ(アカザ、アカダ  ネブリ(ニラ)  ジュンサイ(五十里に白生している)
 タダノコ(細い竹の子、河内に自生)  ツモト(ねぎに似たもの)
 アザミの葉(焼いて汁の実にする)  イヌビュ(葉を茄でて酢味噌和えにする)
 タラノ芽(タラの木の新芽。茄でて胡麻和えにする)
 ヅブキ(ギボーシ。新芽を茄でて水にさらし、味嗜汁の実にする)
 オオバコ(茄でて和え物にしたり、飯にまぜる)
 モクデ(モクデン。白い花を茄でて酢の物や味嗜汁の実にする)
 キノコ類は、アカゴケ、シバタケ、コノミタケ、ネズミノテ、シメジ、マツタケ、キクラゲ等の種類がとれた。
 たくさん採れると、茄でて塩漬けにして保存しておき"ものごと"の時に用いた。以上あげた他にも、食べようと思えば食べられるものが多く、天災や飢誰の時および終戦前後の食糧難の時期には、たいていの野生植物が食用に供されたのである。
 子供達かおやつ代わりとして、遊びながら採って食べたものには、次のようなものがある。
 キイチゴ、カナイチゴ、クルミ、アケビ、イタドリ、スイバ、ツバナ、ガヤの実、マタタビ、フジの実、グンドウ(ヤマブドウ)、グミ、カンゾウ、テンポナシ、ダメナシ、ガメナシ。
こ れらは戦後、農薬が使われるようになって危険なためと、物資が豊富になると同時に経済的にらくになったため、市販の菓子類がおやつとなり、今ではかえりみられなくなってしまった。
 現在は山菜、野草を摘む暇がなくて、ワラビ、ゼンマイ、キノコなど特に美味のものだけは利用されているが、他は手数がかかる上に、子供達の嗜好にも合わず、肉、ソーセージなどをはじめ、いろいろな加工食品が手軽に購入できるため、ほとんど利用されなくなってしまった。
 しかし、この豊富な山菜を利用して、現在、組合が山菜加工場を作り、白然の味を村の特産品として生産する研究がなされていることは、都会に住むひとびとの郷愁をそそる食品として、時期を得た企画であり、将来性があろう。

(文は「柳田村史」918頁/第二節 食生活より)

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