■食ING半島能登で披露 |
着物は大路家の娘(現石田きくさん)のものを着て音頭をとり、いやさかに家運の隆昌を祈ったものだ。 大正十四年七月に、小間生本両寺(作原隆章師)の新築竣工のため行われた、貴重な石場がちの記念写頁を提供していただいた。宇出津町柴田写真館を招き七十八年前に撮ったものである。 写真の中の前住職英吽法印はじめ、多くの故人になった檀家や小間生校下の人たちの生き生きとした顔、懐かしい姿が記録されている。英吽法印のこころに感謝する気持でいっぱいでした。 今回の石場がち櫓は、昭和六十三年に植物公園で行われた「食ING半島能登」のオープニングフェスティバルで披露するために、字柳田の大井政治(当時六十歳)、丸山勝守(当時五十二歳)両大工さんにより製作された。今回の胴突きの新調にともない丸山さんが、滑車の工夫、七・五・三の印、付属「スズメ」(胴の根元の引き綱を固定する部分)「まんとこ」、扇、五色の幟など伝統的なものを重んじて再現されました。 (文は「柳田歴史ものがたり」266頁より) |
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■石場がちという儀式 | |
(文は「柳田歴史ものがたり」266頁より) イシバガチ(石場搗ち) 柱を立てる位置のグリ石を突き固める作業を「イシバガチ(石場搗ち)」と言い、「ヤグラドウツキ(櫓胴搗き)」で行った。まず大工棟梁は、地搗き道具として末代の繁栄に通じる松の丸太材を用意する。 櫓を組み、胴搗きの場所を固定化するためネドリ(根取り)が二人、櫓の下で頑張る。多勢の手伝い人の乎吸を合わすため、音頭取りがが櫓上に登り石場搗ち唄を高唱し作業をリードする。この音頭取りは花笠を冠る習俗がある。 乾の方角の柱より始め、最後は大黒柱で終了するが、大黒柱ではありったけの大声で石場搗ち唄を唱和し、精力を出し尽くして搗きあげ、作業を終える。 (文は「内浦町史」第二巻826-827頁より抜粋) |
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■家普請 |
家普請の記録 瀬戸 久雄 去る十五年十一月の文化協会三十周年記念に「石場がち」が再現され、村内外から好評を博した。NHKはじめ、多くのマスコミ関係者から、「石場がち」が歴史的にいつの時代から行われてきたものか、その規模、どんな方法で為されたかなど質問された。 これらの質問に答えるべく、写真のように、中谷家の『享保六年(1721)丑正月吉日、家普請諸入用帳、鳳至郡黒川村、仲屋新助』とある文書に行き当たった。その中に家普請新立祝儀、石場祝儀の記録がある。中居村の大工棟梁吉兵衛ほか六人、おそらく石場祝儀の長三郎は中居村の人だろう。石井村八右衛門については、作料四十六人分の内、六人分は普請に引くと記録されている。石工として一人弐匁五分を受取っている。大工棟梁吉兵衛は弐匁六分である。享保三年(1718)金一両は銀四十五匁。米一石あたり享保元年(1716)は百六十二匁、十三年には四十九匁。 (『加越能近世史研究必携』より) (文は「柳田歴史ものがたり」270頁より) |
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■棟上祝儀 | |
棟上祝儀の記載によると、棟梁へ銀三十目、上下一具、足袋一束、帯三筋、白苧(麻布)百目、紙一束、など詳細に書かれている。ちなみに、銀三十目は大工賃十一日半に相当する。なお注目される事は『牛腸の覚え』と記録されている点である。 この「牛腸」の文字は、どんな意味を含んでいるのか、興味ふかいものがある。家の普請には集落の人々や親戚一同が家主へ、金品、酒など贈る慣習がある。家主は「ごちょう」を受け、祝膳を整え振る舞う。 (文は「柳田歴史ものがたり」270頁より) |
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■蔵の棟木 | |
「腸」には、「こころ」の意がある。(白川静『字統』)このように、「ごちょう」は自然の中に生かされている農民の敬虔な心を表わすといえよう。(中略) 文書の中にはまだ多くの研究課題がある。中谷家の歴史の重みを知るおもいだ。 (文は「柳田村史」270頁より) |
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■家普請の記録(諸入用帳) | ||
(文「柳田村史」270頁より) |
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■柳田の家/柳田村史から | |
屋根は元来茅葺で、軒は特に厚く葺くが、下に藁.麦がら.麻がらなどを敷き上を茅で葺いた。棟は風当たりが強いので、竹を通して藁の束を九力所ほどでおさえる。この竹は奇数で、茅葺に一層の美観を添えている。 屋根の型式は入母屋で、棟はやや湾曲して両袖が高まり、威容を示している。破風は母屋では煙出しの役をし、厩では明り取りの役目をするが、内側を板で三角形に縁取り、その内部の下半分ほどを藁でかこってある。 土蔵は本来土壁の周囲に柱をたて屋根の上にサヤをかぶせたもので、屋根は草葺であった。これを「枠組土蔵」といい、現在その残っているものはごく少ない。しかし近年は「浮き屋根」の型式で瓦葺にかわってきている。 これは土壁の天井の上に石をおき、屋根を浮かせてかぶせたものである。土蔵の入口にはトマイ(塩気のものを称する)といわれる庇の出しの部分があり、漬物や味噌などをおく。 (文と写真は「柳田村史」939頁より) |
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