宮本家と万九郎館


石井村大工万九郎
能登町石井地区
 中世の石井村は米山城の城下町であり、戸数三百戸ともいわれ、地域経済の中心地であった。本町、下町、高町、寺小路、寺地など地名にも古へを伝える名称がある。
大工、油屋、桶屋、木地師、鍛治、鋳物師、石工、紺屋、畳屋など職人が多く居住していた。
 その中に大工大森万九郎は特に近隣にその名工として、その名が高い。特に文化・文政年間の多くの寺社の建築、彫師として活躍している。輪島市熊野の光栄寺「龍」が有名であるが、文化三年七月の作品である。
 曹洞宗蔵福院(石井)の向拝の鳳凰の彫刻は万九郎作だが、その鳳は寺地の河原(柳田川)へ翔び、自分でエサを啄むことしきり。鳳凰の美しさと不思議に在所の人々は驚き、蔵福院の向拝の烏と知って、名工の技を誉めそやしたという。
(文は「柳田歴史ものがたり」185頁/瀬戸久雄氏筆より)

石井村大工万九郎と宮本康一宅
石井 静 さん
 それより「飯食い烏」と村人が言ったそうだ。石井村に大火があって蔵福院が類焼の災難に遇ったとき、この「飯食い烏」が飛翔して、自ら難を逃れたと喧伝された。
 万九郎の弟子に柳田村右近、小間生八兵衛、上時国新築の安子棟梁等名工を育てている。東本願寺両堂建立の際にも万九郎は一統の弟子と共に上京し、その技を競い、諸国の匠にその名を知られるに至ったと言われる。・ ・ ・
 近世の職人、特に大工・石工にとって自分の使う道具は自分で鍛治をして、あるときは鑿、小さな鉋など細工に応じた道具を鍛造した。そのすぐれた技術によって、神社仏閣の彫刻や組物に芸術的な生命を注ぎ込んだといわれる。
 大工万九郎は、また鍛治万九郎とも呼称された。笹川区宮本康一氏の住宅は文政年間に建築されたが、現在残っている万九郎作の唯一の住宅建築である。太くて大きな材料を駆使して組みあげ、宮本家に必要な釘を自ら造った。
(文は「柳田歴史ものがたり」185頁/瀬戸久雄氏筆より)

宮本康一宅の菊と鶴亀の自在鉤
万九郎作の自在鉤
 また菊と鶴亀をあしらった鉄の自在鉤を作り、仕事を自分に命じた宮本家への感謝の気持ちとして贈ったものといわれている。                 (中 略)
  万九郎は、文政六年十一月東本願寺の火災を知り、後に上京した。今からおよそ百七十年前のことである。
(文は「柳田歴史ものがたり」185頁/瀬戸久雄氏筆より)

宮本康一宅(外観)
宮本家の表通り/手前が上流側
宮本家の玄関廻り
宮本家の全景/右側に座敷があり、左家(左側に厩があった)
写真上左は表通りで手前が上流側となる。写真右上は玄関廻り
写真下は全景で右側に座敷があり、左家(左に厩があった)

宮本康一宅(内部)

宮本家のニワ 宮本家のオエ 宮本家の茶の間
写真左はニワ、奥がアガット。中央はオエ、改装されて薪焚き機能はない。
写真右は茶の間、万九郎作の自在鉤が下がる。

柳田の古民家(屋敷)
 柳田村には建築年次の古い家があり(上の図)、その様式は現在までずっと受けつがれてきている。この村の民家はかっての馬産地を反映して、母屋と厩とを持つのがふつうであるが、厩は屋敷地の付近を流れる川の下流、すなわち低い方に建てられるのが慣習で、厩の反対側に上座敷が造られる。上流に厩を建てない点はこれを不浄と考えたためであろう。また母屋の正面に面して、厩の位置は左側・右側のいずれの場合もある。前者を左家、後者を右家と呼んでいる。    (中 略)
 普遍的な型式は右家であるが、これはふつういわず、左家だけをとくにいう。土蔵はどの家にもあるとは限らず、その位置は不定であるが、これは屋敷地に余裕のないため、地形に応じて建てられるものとみられる。    (中 略)
 母屋の棟の方向は、谷川と平行になっているが、逆に直交するのは谷を棟が切ることになり、「谷しきり」といって、病人がでたり、不幸が続くものとして嫌われている。また母屋・厩・土蔵の棟の方向が平行に並ぶことも嫌われ、このため大抵厩の棟は母屋のそれと直交するように建てられている。
(文は「柳田村史」935頁より)

古民家の炉辺
自在鉤の名称ぎ
 炉の名称
炉辺の座
 炉をヘンナカという。炉の周辺には座席が決まっている。
 ヨコザは主人の座席である。
 シモザは主掃の座席で、その下に嫁が坐る。
 オトコザは兄(婿)が坐る。お客がある時はここに坐る。
 タナモト(名称のないムラもある。)は婆・孫が坐り、来客がある場合には兄や婿・弟が坐る。
オエ(台所)の下の隅に薪(たきぎ)・炭などを置く所をキバラ(キョッパ=木置場)といい、アテ製の薪を切る台を置いてある。(どこのムラもチャノマのいろりには名称がない。)
食事はすべて台所に膳を並べて食事をし、終わると戸棚へ納める。
バンドは魚形をした彫物を用いることを上流の家の誇りとする。
コアマをヘタゴという所もある(源平)。 
(文と図は「能都町史」497頁より)

古民家の厩(うまや)
マーヤ
 一般にはマーヤ(上の図)と呼ばれ、川下の位置に設けられ、ニワから土間の廊下を通って別棟になっている。別棟である点は衛生上よいが、雪に埋もれるこの地方としては管理の便を考えて廊下でつないだものとみられる。これは農民の知恵の所産といえよう。
 厩は一メートルほどに掘下げられ、さらに二〜三室に仕切られている。これは厩肥をとるためで、草を馬に踏ませる。馬は漸次高い所にあがっていくが、一室が一杯になると次の部屋に馬を移すわけである。ただし、厩肥を効果的にとるためには改善の余地がある。
 厩は広く、その一部に大便所があり、農具・干草・茅なども置かれている。現在はほとんどが牛の飼育に変わっている。
(文と写真は「柳田村史」369頁より)

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