オープンガーデン2013が4月下旬〜5月中旬の期間開催されています。

のとキリシマツツジ館


のとキリシマツツジ
キリシマとアゲハ蝶
 キリシマツツジは、ミヤマキリシマとヤマツツジが、交雑して生まれた品種とされる。「のとキリシマツツジ」は、その一品種とみられ、特に能登地方に多く分布する。
 江戸時代にキリシマツツジが大流行した際に、愛好家の手によって耐寒性の強い品種に改良され、それが愛好家や出稼ぎの人びとによって、能登地域に植栽されたと考えられている。古株の中には樹齢300年を超えるものもある。
 能登町の花「のとキリシマ」。5月になると、樹齢100年以上の古木や愛好家の手によって手入れされた見事な盆栽が、庭先で競うように咲き誇ります。
(文と写真は能登町広報「広報のと」2006/6より引用)

フェスティバル開催
宮本康一氏/のとキリシマツツジ連絡協議会会長
 平成15年、笹川の宮本康一さん宅に穴水町、能登町、珠洲市のキリシマツツジ愛好家8人が集まった。「のとキリシマツツジの情報を共有し、結集してやろう」と柳田村盆友会の会長である宮本さんが呼びかけた会合だった。この会合を機に「のとキリシマツツジ連絡協議会」説立の気運が高まり、平成16年6月穴水町上中公民館で能登半島全域を対象とした組織が誕生した。
 「まずはたくさんの人にキリシマを知ってもらいたい」と協議会は探訪マップをかねたポスターを制作、そして能登空港で「のとキりシマツツジフェスティバル」を開催した。
 制作したポスター1万部はあっという間になくなリ、フェスティバルには3日間で7000人が訪れるなど協議会の活動は大きな反響を呼ぶ。
(文と写真は能登町広報「広報のと」2006/6より引用)

平成18年学術調査を行う
芦田家(中斉)の「のとキリシマ」/キリシマを保護するための移動式のガレージを装備、花二重でガレージのため雪害も少ない
 このフェスティバルの反響から、倉重祐二氏(新潟県立植物園副園長)と小林伸雄氏(島根大学生物資源科学部准教授)の2人の専門家がのとキリシマツツジの学術調査を行うことになった。日本のツツジを研究しつくしてきたはずの2人の学者は、能登半島にこれだけたくさんのツツジがあることに非常に驚いたという。「何が本当ののとキリシマなのか、そのルーツが知リたい」。のとキリシマのルーツを探ることは、盆友会でもたびたび議論されてきた大きなテーマのひとつだった。
 平成18年、2人の学者は珠洲市で調査報告を行う。「学術的にしっかリすることにより、マスコミの取り上げ方が変わった、今までの自分たちの活動は無駄ではなかったが、説得力がなかった」と話す宮本会長「今後は、さらにDNA鑑定を進め、能登にしかない花ということを実証してもらいたい」と語る。
(文と写真は能登町広報「広報のと」2006/6より引用)

「のとキリシマ」の保存
酒井家の「のとキリシマ」、五十里の近く/天然記念物で、花は紅紫色をしていて、キリシマの亜種の多さを感じさせる。花が紅紫色は珍しいのではないか。
 のとキリシマの普及はこれからも進むという宮本会長が次に力を注ぎたいことは「保存」だ。「キリシマの移植ができるような人間は数人しかいない。高い、技術をもった人材をいかに育てるかが大きな課題」という。
 「のとキリシマは能登半島の大切な文化。文化には人が欠かせない」と考える宮本会長。「キリシマは、家があリ人がいて育つ。人間とともに生きている。人の心が木に移り、感動させるようなキリシマになる」と話す。
 わたしたちの先人が、大切に守リ続けてきた「のとキリシマツツジ」。その燃えるような真っ赤な姿は、能登半島を元気にする原動力になる。
(文と写真は能登町広報「広報のと」2006/6より引用)

「のとキリシマ」の今後
背戸家の「のとキリシマ」、あまめはぎ公園近く/町の天然記念物に指定されていて、南北6.7mに枝を広げるその大きさは能登町でモットモ大きいと思われる。
 能登の名を冠する唯一の花「のとキリシマツツジ」。近年は、DNA鑑定など学術的調査も進み、満開の時期には連日マスコミに取り上げられるなど、その注目度は年々向上しています。
 5月上旬、能都庁舎、柳田植物公園、能登空港の3カ所で、恒例となっているのとキリシマツツジの展示会が開催されました。各展示会場では、愛好家によって大切に育てられた満開ののとキリシマが見事に咲き誇っていました。その真紅の花は、県内外から訪れるたくさんの観光客を魅了していました。
(文と写真は能登町広報「広報のと」2006/6より引用)

「日本一ののとキリシマ」
山岸家の「のとキリシマ」
 能登町では柳田地区の4株を町の文化財として指定しています。また、昨年4月には珠洲市「大谷ののとキリシマツツジ」と輪島市「赤崎ののとキリシマツツジ」が県指定の文化財となるなど、先人が守り続けたのとキリシマツツジの文化的評価も高まっています。
 能登半島はキリシマツツジの保存について、その規模の大きさは日本一であり、のとキリシマは能登地方の固有種の可能性があるということです。
(文と写真は能登町広報「広報のと」2006/6より引用)

能登の山野に自生するツツジ類
笹川の山口家の「のとキリシマ」
 日本に自生するツツジ属の仲問は大変多く、四十数種類あるといわれる。能登の山野にも幾種類かのツツジが自生、古くから人々に親しまれてきた。
@サイゴクミツバツツジ
 落葉低木で花色は一般に紅紫色である。シロバナサイゴクミツバツツジも、稀に柳田地方などの山地に自生している。
Aレンゲツツジ
 落葉低木で花色は変化に富むが、一般的にかば色のものが多い。
Bヤマツツジ
 日本の山地に広く分布する。花色は朱紅色のものが多い。
Cウラジロヨウラク
 花型はツリガネ状で紅色である。柳田地方の山地に稀に見られる。
Dその他オ
 オコメツツジ(珠洲市の宝立山)などがある。
(「のとキリシマツツジ写真紀行」より引用)

のとキリシマツツジの来歴
 キリシマツツジの来歴は明確でないところもあるが、一般に、鹿児島地方の野生品の中から選抜した園芸種とされている。
 キリシマツツジには、いくつかの系統がある。中でも、江戸キリシマツツジは、深紅の花色が当時の人々に喜ばれ大流行した。今も各地に、当時の名残の江戸キリシマツツジの大株を見ることが出来る。
 キリシマツツジが九州から江戸に入ったのは江戸時代の初期で、今から、三百四十年から三百五十年前のことである。その後、選抜改良され、暖地性の母体から耐寒性の強い今日のような立派な品種が作られた。これが地方に分散し改良され、地方名がついて○○キリシマとして発達してきたものと考えられる。
 能登地方にあるキリシマツツジも、いつごろ、どんな経路を経て植栽されたものか不明である。おそらく、我々の先祖である愛好者が、旅の途中、この花に魅せられ持ち帰ったものか、あるいは、北前船の交易との関係で運びこまれたものだろう。
のとキリシマツツジの持つ生命のたくましさに畏怖の念を抱くとともに、奇跡に遭遇したような驚きを感じる。
(「のとキリシマツツジ写真紀行」より引用)

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