■五十里歌舞伎 | |
平成十・十一年度には柳田村商業振興協同組合が村の文化財保存に加えて商店街のにぎわい創出と全商店の結束を固める一石二鳥の試みとして五十里歌舞伎の復活に着目し上演している。 |
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■柳田村史にみる五十里歌舞伎 -演目 | |
衣裳は、はじめは家々にある物を借り、後には七尾の春木屋という呉服屋で賃借した。鎧は十郎原区に一くさり、宇出津に一くさりあるのを借りた。かつらは北河内区から借りたが、これも後には春木屋で借りた。 (文は「柳田村史」855〜856頁より引用) |
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■柳田村史にみる五十里歌舞伎 -稽古 | |
その後衰微の時期がきて、北河内区にすべて見習うことになり、援助を得たのであった。北河内区は藩政期には天領であったから、生活もし易く、ここでは村芝居は開花していたのであった。 やがて五十里区の若い衆が北河内区を範として熱心な稽古を繰り返し、北河内区に対立するくらいに発展した。戦時中には将兵の慰問演芸となリ、戦後には柳田劇場・宇出津劇場で演じ、更に金沢の中央公民舘でコンクールに競演した。現在、村の無形文化財の指定をうけている。五十里の芝居の特色といえば、まず、義太夫の節が柔かいことである。また役者の気がよく合い、見得を切る動作が大きい、顔を合わす時の動作も強い、ということがいえる。 (文は「柳田村史」855〜856頁より引用) |
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■柳田村史にみる五十里歌舞伎 -今後 | |
テレビジョンが普及し、スポーツが盛んになり、新しい趣向が流行する今日、古典劇たる歌舞伎芝居が存続することは容易でない。その間にあって、大都会の歌舞伎を実地に研究し、テレビジョンの画に絶えず関心を払って心を砕いている熱心な青年達もいることである。伝統的芸能を心から愛し、正しい理解のもとに保存してゆくべきものと思うのである。 (文は「柳田村史」855〜856頁より引用) |
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■五十里歌舞伎 -追憶(原田一郎) | |
五十里歌舞伎を肴にこんな話しや台詞回しを面白おかしくまねて楽しまれたのは、とんと昔のことになってしまった。 歌舞伎を中心として村芝居が五十里で盛んに楽しまれたのは、江戸末期の文久年間から昭和の初め頃までである。芝居が庶民の娯楽として完成をみたのが江戸時代であるというから、この地にまで伝播するのにかなりの時間差が窺える。しかし、この時間差によって士地柄に応じたまとまり方をした文化の一つに、五十里歌舞伎がある。 年寄りから芝居の話を聞いたとき、「おれの祖父らっちゃ芝居したとき今みたいに化粧品がなかったさかい、山から泥とってきて塗ったり消炭使うたりして顔づくりしたげと」こんな下りで話しを聞くのは楽しいものであった。 (文は「やなぎだ歴史物語」185頁より引用) |
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■五十里歌舞伎 -時代背景(原田一郎) | |
在所草高三百三十二石余りの内の百二十石分を養う免谷用水が完成した事である。苦しさの中の喜びは、老若男女を問わず挙って楽しむ芝居は的を得たものであると思う。 「痛い!」といったシナリオにない台詞が、舞台の外で脚色され、後々の話題に楽しみを添えて語り継がれ、手足に皸を作って働きながらも、芝居を楽しんだ先人をしばし偲んでみたい。 (文は「やなぎだ歴史物語」185頁より引用) |
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■加賀百万石博で上演 | |
平成十・十一年度には柳田村商業振興協同組合が村の文化財保存に加えて商店街のにぎわい創出と全商店の結束を固める一石二鳥の試みとして五十里歌舞伎の復活に着目し上演している。 今回の演題は、忠臣蔵外伝として『赤垣源蔵徳利の別れ』をモデルに五十里歌舞伎保存会で独自に脚色された義士銘々伝『横川勘平・内の段」を上演した。義太夫の声と三味線の音が響く中、舞台では迫真の演技が披露され、来場者を楽しませた。 (平成14年) |
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