吉村家の古民家館


百四十年の時間旅
囲炉裏囲んで
 築百四十年の庄屋の屋敷であるが、建築当時の仕様がほぼ完璧に保存されていて、大変貴重なものである。建具類も風呂場廻りを除いて当時のままで、縁の雨戸も板戸に明り取りの紙障子が貼ってある。外部と障子紙一枚で隔てられているのは衝撃的。
 薪焚きの囲炉裏も活きていて、天井の煙り抜きは機能する。座敷廻りも部屋の格式により仕上げが異なる。
 写真は百四十年の時を経た空間での宴会、筆舌に尽くしがたい。

吉村宅の外廻り
正面外観(南側) 玄関廻り
 写真左は南側外観で右寄りに玄関がある。左側に座敷があり右家である。
 写真右は玄関廻りで奥に土蔵が見える。母屋とは直交している。

吉村宅の玄関廻り
玄関内部 賓客用のアガット
 写真左は玄関内部より南側の田園を挟んで持ち山を見る。右手がアガットと呼ばれる上り口。
 写真右は玄関入って左側のアガット、奥にデェ、ザシキと部屋が続く。鴨居上方にシカ狩りに使った槍がかけてある。

吉村宅の外廻り(下流側)
東側の厩 木納屋
 写真左は厩(うまや)。石積みのりっぱな基礎が印象的、右手前は木納屋。
 写真右は木納屋で薪を乾燥、貯蔵するところ。極めて大きい。

近世集落の住宅
 古い家はほとんどクズヤ(茅葺)であり平屋であるが、建て方には平屋と吾妻屋の二通りがある。通称リョウノマ、ナンド、デェの上に二階をとっている家が相当ある。デェの上は若者の寝室にあてられ、リヨウノマの二階は物置、ナンドの二階は女の機場(ハタバ)にあてているもの、子供の勉強部屋にあてているなど、その家によって異なつている。
 カマドは風呂場の横(流し)においてあるものが多く、なかには台所の隅にある家もある。台所、チャノマにはヒラモンといって尺二、尺五、尺八の広い欅を用い、家の風格をあげて自慢することが多い。
 柱は杉が多いが、欅、栗を使うことを誇りとしている。根太は栗、檪(クヌギ)を用いている。指物はキ型、井型に組み、大きな松があてられ、天井はその上に張り、用材の大きなのを家の格上としている。玄関(オート)の上は戸冠(トカブリ)と称し、欅・松の尺以上の広いものを使って誇りとする。
 床柱は良材を使うことを自慢の一つとし、最も意を注いで選定している。ブツマとチャノマの境の柱をオミキバシラといっている所は宮地・吉谷・曽又・波並等で、全く名を付けていないムラも多い。このオミキバシラをダィコクバシラといっている所は小垣・柏木・宇出津等である。ニワと台所、チャノマの角柱をダイコクバシラと称する所は矢波・宇加塚等であり、吉谷・真脇・小浦等ではテカケバシラといっている。
 ニワの上は二階となっているものが多く、農機具、茅などを保存するようで、屋根裏はおおよその家では茅を積み上げている。
(文は「能都町史」第一巻492〜495頁より)

近世集落の住宅/部屋の使い方
古民家の間取り
@オエ(台所・ダイドコ)六畳・八畳・十畳・十二畳等があり、家族が日常起居し、また食事場ともなる。
Aチャノマ(八畳・十畳・十二畳等)来客の応待用に、普段は布団・茶道具等の物置場になっている。
Bデエ(アラケンデェ)(六畳・八畳・十畳・十二畳)普段は桶、箱、かますなどに大豆・小豆・飯米・コヌカ・桝などの農用・食用の小出物をおき、ムシロ・ゴザ・ヘットリ等が含まれる。秋には干し稲を積み上げたり、籾俵・調製米を積み上げ検査場にも用いる。しかし最近ではこれらを農舎に納め、全く解放して居間または来客用にしたり、裁縫室にあてたりしている。
Cリヨウノマ(六畳位)昔は多勢の客人に出す料理お膳の配置盛り揚げに使用するものであったが、普段は家族の寝室・居問(若い者)または老人の寝室にあてられている。
Dザシキ(八畳・十畳)高貴な方の接待室で、坊さん・神主・来賓の方にのみ使用され、平素は全く使用していない。
Eブツマ(仏問)(六畳・八畳)床に仏壇を置き、仏事用の室で普段はほとんど使用しない。
Fナンド(納戸)(六畳・八畳)世帯主夫婦の寝室である。
Gニワ(土問)(六畳・八畳・十二畳・十四畳)秋に稲の脱穀調製用に使うため、うす・籾すり機・きね.農機具が皆ここに置いてある。冬、薪などの物置になる。
Hマーヤ(厩舎)ナヤともいう。もともと牛馬を飼育する所で、五十年程以前までは、牛か馬か必ず一頭以上飼育していた。舎の半分は肥料づくりのために、ドーケといって、大きな桶、シックイによる長方形の溜りをつくり、草・土・藁を入れて大小便所にあて、シモゴエ(自給肥料)を造ったのである。

 (文は「能都町史」第一巻495〜496頁より)

古民家の炉辺
自在鉤の名称
 炉の名称
炉辺の座
 炉をヘンナカという。炉の周辺には座席が決まっている。
 ヨコザは主人の座席である。
 シモザは主掃の座席で、その下に嫁が坐る。
 オトコザは兄(婿)が坐る。お客がある時はここに坐る。
 タナモト(名称のないムラもある。)は婆・孫が坐り、来客がある場合には兄や婿・弟が坐る。
オエ(台所)の下の隅に薪(たきぎ)・炭などを置く所をキバラ(キョッパ=木置場)といい、アテ製の薪を切る台を置いてある。(どこのムラもチャノマのいろりには名称がない。)
食事はすべて台所に膳を並べて食事をし、終わると戸棚へ納める。
バンドは魚形をした彫物を用いることを上流の家の誇りとする。
コアマをヘタゴという所もある(源平)。 
(文と図は「能都町史」497頁より)

右家と左家
 柳田村には建築年次の古い家があり(上の図)、その様式は現在までずっと受けつがれてきている。この村の民家はかっての馬産地を反映して、母屋と厩とを持つのがふつうであるが、厩は屋敷地の付近を流れる川の下流、すなわち低い方に建てられるのが慣習で、厩の反対側に上座敷が造られる。上流に厩を建てない点はこれを不浄と考えたためであろう。また母屋の正面に面して、厩の位置は左側・右側のいずれの場合もある。前者を左家、後者を右家と呼んでいる。
 普遍的な型式は右家であるが、これはふつういわず、左家だけをとくにいう。土蔵はどの家にもあるとは限らず、その位置は不定であるが、これは屋敷地に余裕のないため、地形に応じて建てられるものとみられる。
(文は「柳田村史」935頁より)

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