■百四十年の時間旅 | |
薪焚きの囲炉裏も活きていて、天井の煙り抜きは機能する。座敷廻りも部屋の格式により仕上げが異なる。 写真は百四十年の時を経た空間での宴会、筆舌に尽くしがたい。 |
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■吉村宅の外廻り | ||
写真右は玄関廻りで奥に土蔵が見える。母屋とは直交している。 |
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■吉村宅の玄関廻り | ||
写真右は玄関入って左側のアガット、奥にデェ、ザシキと部屋が続く。鴨居上方にシカ狩りに使った槍がかけてある。 |
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■吉村宅の外廻り(下流側) | ||
写真右は木納屋で薪を乾燥、貯蔵するところ。極めて大きい。 |
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■近世集落の住宅 |
古い家はほとんどクズヤ(茅葺)であり平屋であるが、建て方には平屋と吾妻屋の二通りがある。通称リョウノマ、ナンド、デェの上に二階をとっている家が相当ある。デェの上は若者の寝室にあてられ、リヨウノマの二階は物置、ナンドの二階は女の機場(ハタバ)にあてているもの、子供の勉強部屋にあてているなど、その家によって異なつている。 カマドは風呂場の横(流し)においてあるものが多く、なかには台所の隅にある家もある。台所、チャノマにはヒラモンといって尺二、尺五、尺八の広い欅を用い、家の風格をあげて自慢することが多い。 柱は杉が多いが、欅、栗を使うことを誇りとしている。根太は栗、檪(クヌギ)を用いている。指物はキ型、井型に組み、大きな松があてられ、天井はその上に張り、用材の大きなのを家の格上としている。玄関(オート)の上は戸冠(トカブリ)と称し、欅・松の尺以上の広いものを使って誇りとする。 床柱は良材を使うことを自慢の一つとし、最も意を注いで選定している。ブツマとチャノマの境の柱をオミキバシラといっている所は宮地・吉谷・曽又・波並等で、全く名を付けていないムラも多い。このオミキバシラをダィコクバシラといっている所は小垣・柏木・宇出津等である。ニワと台所、チャノマの角柱をダイコクバシラと称する所は矢波・宇加塚等であり、吉谷・真脇・小浦等ではテカケバシラといっている。 ニワの上は二階となっているものが多く、農機具、茅などを保存するようで、屋根裏はおおよその家では茅を積み上げている。 (文は「能都町史」第一巻492〜495頁より) |
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■古民家の炉辺 | |
炉辺の座 炉をヘンナカという。炉の周辺には座席が決まっている。 ヨコザは主人の座席である。 シモザは主掃の座席で、その下に嫁が坐る。 オトコザは兄(婿)が坐る。お客がある時はここに坐る。 タナモト(名称のないムラもある。)は婆・孫が坐り、来客がある場合には兄や婿・弟が坐る。 オエ(台所)の下の隅に薪(たきぎ)・炭などを置く所をキバラ(キョッパ=木置場)といい、アテ製の薪を切る台を置いてある。(どこのムラもチャノマのいろりには名称がない。) 食事はすべて台所に膳を並べて食事をし、終わると戸棚へ納める。 バンドは魚形をした彫物を用いることを上流の家の誇りとする。 コアマをヘタゴという所もある(源平)。 (文と図は「能都町史」497頁より) |
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■右家と左家 |
柳田村には建築年次の古い家があり(上の図)、その様式は現在までずっと受けつがれてきている。この村の民家はかっての馬産地を反映して、母屋と厩とを持つのがふつうであるが、厩は屋敷地の付近を流れる川の下流、すなわち低い方に建てられるのが慣習で、厩の反対側に上座敷が造られる。上流に厩を建てない点はこれを不浄と考えたためであろう。また母屋の正面に面して、厩の位置は左側・右側のいずれの場合もある。前者を左家、後者を右家と呼んでいる。 普遍的な型式は右家であるが、これはふつういわず、左家だけをとくにいう。土蔵はどの家にもあるとは限らず、その位置は不定であるが、これは屋敷地に余裕のないため、地形に応じて建てられるものとみられる。 (文は「柳田村史」935頁より) |
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