能登の炭焼き館


炭焼きに設計書はない
炭焼きに設計書はない

 「窯に火を入れたら生き物と同じ。温度が高すぎても、低すぎても良い質の木炭はできない」と話す小箱政治さんは、伝統ある柳田木炭の組合長を務めている。
 先代、先々代は鍬作りの職人だったという小箱さんは、30歳の時に炭を焼いてみようと考え、35歳くらいから本格的な炭焼きを始めた。
 「この仕事は自分に合っている」と感じたという小箱さん、周りの炭焼き名人の話を聞いたり、品評会へ出向くなどしながら、自己流で炭焼きの技術を積み重ねた。
(文と写真は町の広報誌「広報のと」第22より)

ずっと手作りを続けている
炭焼き小屋
 炭を焼く窯は山の斜面を切り抜いた小箱さん手作りの窯である。「窯の構造、水気など窯のつくりが木炭の出来を左右する」という。現在使っている窯は平成13年に1カ月を費やして製作したもので一度に60俵(一俵15s)の木炭を作ることができる。
 「炭焼きで一番難しい作業は原木に火を付けるとき。ここで炭の質が決まる」と話す小箱さん。これは窯に火を入れ、乾燥させた原木に火を付けるときの温度が重要ということだ。「一般的に最適といわれている温度はあるが、その時の煙の色、香りも重要な判断材料」という。「窯の温度が1度下がっても煙でわかる」というその経験と技術が、小箱さんの良質な炭を支えている。
 小箱さんの木炭の質は内外に認められている。今年10月に金沢市で行われた「石川の農林漁業まつり」の木竹炭品評会において林野庁長官賞を受賞、その技術の高さを証明した。
(文は町の広報誌「広報のと」第22より)

もっと遊び心を
もっと遊び心を
 現在は、組合長として指導する立場にある小箱さん。「定年退職を契機に炭焼きを始める人が1人でも2人でも出てきてくれれば」と考えている。
 「木炭作りには設計書はない。30年以上経験した今でも手探りの作業を続けている」というが「だからこそ『やる気』があれば誰でも出来る仕事」と言い切る。
 「昔は人間を見れば炭の出来がわかるといわれた。炭作りには人間性が出る』という。真面目に炭を焼き続けてきた小箱さんに、これからどんな炭を焼きたいのかを聞いた。
 「燃料だけを焼いてもおもしろくない。これからはインテリアになる巨大な炭や、花を飾るような色々な形の炭を焼くなど、もっと『遊び心』をもって炭を焼いていきたい」と笑顔で話してくれた。
(文は町の広報誌「広報のと」第22号より)

後継者を育てる
後継者を育てる

 以下は当会が小箱さんに取材したところをまとめてみた。
 この柳田地区では6箇所炭焼きを行なっているがいずれも高齢化の問題を抱えている。それでも木材の切り出しを別にすれば、作業は(高齢でも)可能なので、今後も続けて行き、後継者(息子さん)を育ててゆくとの強い意気込みを有しておられる。
 現在、一冬に70〜80トンの材料を使用しており、材料10トンに対し炭1トンを作ることができる。窯出しは10日に1回程度行っているが、今後は森林組合を活用して材料確保と販路拡張を計っておられる。

炭窯づくり-柳田村史から
炭焼き窯
 十郎原の一故老の話から/藩政時代の製法
 炭焼きはまず窯づくりから始まるが、この仕事は一般に「せあげ」と呼ばれている。この呼称は窯の天井土を「せづち」と呼び、窯そのものがせづちをのせることによって仕上がるためであろう。
 堅炭を焼く窯は「まがま」とよばれていた。この製法は傾斜地を切り拓き、幅五尺に奥行き六尺の窯をつくり、その中に長さ四尺の炭材を合掌形に積み重ね、その上へ焼土(多くは前の窯の天井土、すなわちせづちを用いた)をかまぽこ形に五寸程のせ、これをたたき木で打ち叩いて締めたのである。焚き口は高さ三尺程の石の烏居立ち(二本の石を立て、その上に横石をのせて烏居形式にしたもの)で、その幅は内のり一尺二〜三寸となっていた。
 また窯の後方煙道の上にたてる煙突は、長さ四尺程度の板を用いて下五寸四方、上四〜五寸四方程の箱煙突であった。窯の高さは一番高い所は五尺五寸程で、身長中位のものが立った場合、頭がすれすれという状態であった。こうして出来た窯は一回きりで壊すのではなく、予定の炭材を焼きつくすまで何回も利用したのである。
(文は「柳田村史」367、368頁より)

炭の焼き方-柳田村史から/着火
炭焼き窯
 炭材に点火することを火付けというが、最初の窯は火付けを容易にするため、前日の夕方二時間程焚いて窯の乾燥をはかった。そして翌朝火付けしてそのタ方にはもう炭に仕上げて持ち帰るというスピーディーな仕事ぶりであった。
 火付けは烏居立ちのカ所に立ててある戸石二枚の上石を外し、この一尺四方程の口から長さ一・五尺程の薪を用いて直接炭材の頭に火をつける方法をとっていた。薪が燃えつづけるうち戸石と炭材との間の五寸程のすきまに落ちた灰は、戸石の下石にあけられている径三寸程の「ねだんべ」と称する孔からかき出して下からも空気を送るようになっていた。こうして三時間程も焚きつづけると点火するが、それは火が手前の方へ吹き出し、煙がえがらくなったことによって知られた。
 点火後は上の戸石を立て、隙間を泥でぬり下の戸石のねだんべの孔をつめるせん(づめともいった)で火の調節をはかったのである。窯の内部の様子は上の戸石の両端にあけられている一寸角の小さな覗き孔からうかがったが、これはまたねだんべからの空気の吸い込みの不足を補なう役割も果たしたのであった。
(文は「柳田村史」368頁より)

炭の焼き方-柳田村史から/燃焼
材料のくぬぎ
 こうして炭材の燃焼が進んでゆくと、そのうち炭材が真赤になり、その一本一本が火の線になって見えるようになる。この状態にいたったとき、下石のねだんべのづめを抜いていっきょに風を送り、さらに上下二枚の戸石へ目どめ土をはがしていく。この操作によって炭の熱度が急上昇して炭に硬さが加わるが、この段階になると中の色は赤に白みが加わって花のようになるという。
 ついで焔を散すため(吹き出した焔によって小屋が燃えるのを防ぐ)後方の箱煙突を取り、五寸程すかして蓋石をのせさらに手前の上下二枚の戸石を外し、ついで先端がかぎ状に曲った長さ約九尺の棒で炭をかき出すのである。棒に火がつくと水溜めに入れて消すが炭そのものは棒がふれるとカンカンという金属音が出る程硬くなっており、もちろん折れることはない。
 炭は、五、六本程出しては窯前の左側に横たえ、これに炭粉を水でねった「すばい」(水をかけた直ぐのものはよくない)をかけて火を消す。すばいのかわりに土をかけると、炭の光沢が悪くなるといわれている。炭は、一時間程で全部取り出してしまうが、品質のよいものは炭肌が白っぽくなることから、この堅炭を白炭というのである。
(文「柳田村史」368頁より)

炭の焼き方-柳田村史から/出炭
民家検労図
 堅炭は一回きりしか焼かない場合、一窯二日の工程となるが、連続して焼くと炭材の伐採、搬出を炭焼きと平行してやれることから、毎日の出炭も可能であった。まがま一窯の出炭量は良白炭一六貫、それに次ぐもの約四貫の出来が普通で、良白炭は三貫目入りの角俵で、また一段低いかず俵と呼ぱれるものは二貫目入りの丸俵の形で商品化された。
 炭のうち中かたというのは栗などの軟質な炭材を利用したものという。白炭とは全く異質のものであった。なお、これらの俵装用の俵は藁を用いて冬仕事につくったのである。
 製品は宇出津方面に担ぎ出して「炭イランカー」といって振り売りすることが多かったが、問屋から原木代金を前借リしているものは必ず問屋に売り渡さねぱならなかった。十郎原から宇出津までは少なくとも四時間以上はかかったが、角俵なら四俵、かず俵ならぱ六〜八俵も背負って難路を往復したのである。
(文と写真は「柳田村史」369頁より)

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