■特徴と変化 /第一・二期 | ||
飯・汁用の入子形式の二重椀。木地は、堅く荒い木目の欅の横木取り。ほとんどの加工を手斧による荒取り(中切り)で行ったために椀の見込みと浅い高台内部には穴刳り手斧で剥ぎ取った凹凸が残る。轆轤挽きは口縁部と高台を成形するほか内部及び高台の内側に約0.2センチ幅の轆轤目が部分的に残っている。不規則に残った轆轤目からは、回転軸の中央に木地を固定しなかったことが推測される。 自家製として使用するために手斧の大きなハツリ目を取り去る程度で、轆轤の重労働を軽減したためと思われる。椀の見込み・縁・高台縁に目の細かい布を着せ、炭粉を混ぜた渋下地を施し、生漆もしくは半透明漆を塗る。渋下地の研ぎを行っていないことや水分の多い漆を重ねて塗ったために、艶が無く、表面には細かいブツやホコリが付着し、刷毛目が残る。高台内朱漆書「・一」。第二期も一期と近似している。 (文と写真は平成5年柳田村発行の「合鹿椀」はより) |
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■特徴と変化 /第三・四期 | ||||
第三期 飯・汁用の入子形式の二重椀。木地には目の荒い欅に混じって横木取りの柾目材が用いられる。木地の側面の一部に手斧によるハツリ目が残るものの、椀の側面には膨らみが増し、轆轤挽きに適した形態に変化しはじめた。さらに、高台の側面に約0.2ミリの轆轤目が平行して残り、手斧の作業がほとんどであった従来の椀と違って、轆轤加工の習熟と作業量の増加が見られる。(中略)高台内朱漆書は「上」。 飯・汁用の入子形式の二重椀のほかに飯椀のみでも製作された。木地には横木取りをした欅のうち最も良質な糸柾材で、木地の表面には手斧のハツり目はほとんど兄られなくなった。さらに、できあがった木地には磨き仕上げをするなど轆轤技術の熟達を感じさせる。椀の大きさも徐々に大型化して直径が15センチに達するものも登場する。椀胴部の形状も加工に適して丸味をおび、高台も広くなり、木地の厚みも一定になった。他の産地への木地の出荷も考えられる。 (文と写真は平成5年柳田村発行の「合鹿椀」より) |
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■特徴と変化 /第五期 | ||
飯・汁用の入子形式の二重椀。木地に横木取りした欅の糸柾材を使用する。椀の側面の膨らみは緩やかな丸味になり一、高台も広く安定感のある形態に定着した。形・大きさ・厚みなど規格品として量産されたと思われるほど均一に整っている。轆轤技術の熟練で木地の表面から轆轤目が消え、磨きの工程によってさらに木目の明瞭な合鹿椀が作られた。椀の見込み・縁・高台縁に口の荒い布を着せ、布の上に渋下地を施し半透明漆を塗る。漆には艶と刷毛目が残る。従未の椀と比べて、整然とした木目の良質な材料を使ったり、幾分幅を広めに布を着せるなど視党的な効果を取り入れたのは商品として合鹿椀の価値が認められたのであろう。 (文と写真は平成5年柳田村発行の「合鹿椀」より) |
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■特徴と変化 /第六期 | ||
飯・汁用の入子形式の二重椀・三重椀もしくは飯椀のみも生産された。木地には横木取りした欅の糸柾材を使用し、最大口径が15センチに達する大型の合鹿椀が生産された。椀は、全体に肉厚で胴部は丸く膨らみ、高台はさらに広くなり安定感のある形状となった。 木地に磨き仕上げをし、見込みや縁に着せた布を埋め込むほどの下地を施し、研ぎを行う。上塗りには油を混入した半透明漆を塗ったために、椀の表面から刷毛目が消えて艶が生まれ、漆器としての完成度がさらに高まった。ほとんどの椀の底には記号や一つ文字の朱漆銘が書かれている。 柳田村に遺されている合鹿椀の数はこの時期のものが圧倒的に多く、椀の完成度や生産量などからも合鹿椀の生産がピークに達した時期であろう。また、この時期は漆絵合鹿椀やテンゴウ椀など本来の合鹿椀に見られない装飾的なものや、柳田村以外の産地との交流も考えられる。 (文と写真は平成5年柳田村発行の「合鹿椀」より) |
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■特徴と変化 /第七・八期 | ||||
第七期 飯・汁用の入子形式の二重椀。木地は目の荒い欅の横木取り。木地の乾燥が充分でないために口縁部が楕円形に歪んでいる。大型椀の生産が減ったためか草創期の椀を思わせる復古的な椀が生産された。復古椀は、外形を草創期に真似ているが口縁部の肉が薄く底部は極端に厚い、縁と高台縁に極細い布を着せ、渋下地の上に薄く半透明漆を塗っている。 飯・汁用の入子形式の小型二重椀。木地は目の荒く堅い欅の横木取り。この素材は、木目と木目の堅さが極端に違うために、挽き上がった木地の表面は平滑にならない。また、木地の乾燥が充分でないために口縁部が楕円形に歪んでいる。布着せはなく、薄い渋下地を付け、半透明漆を塗る。下地が薄いためか従来の椀と違って木目が浮き出て粗野な感がある。高台内弁柄漆銘は「又」。 (文と写真は平成5年柳田村発行の「合鹿椀」より) |
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■特徴と変化 /まとめ | |
轆轤加工の変化では、初期の椀は手斧によるハツリ(中切り)作業でほとんどの部分を成形したが、生産量の増加にともない轆轤による作業量がハツリを上回り、最盛期には磨きあげた木地を見せる合鹿椀も登場した。 きゅう漆の変化では、初期の合鹿椀には見込み、縁、高台縁に布を着せ、炭粉を混ぜた渋下地の上に生漆もしくは半透明漆を塗った。製品としての完成度が上がると下地を厚く付け、平滑に研ぎあげ、油入りの半透明漆で上塗りし椀表面から刷毛目や凹凸が消えた。また、木地の縁や高台縁に布の帯を見せる透漆の合鹿椀が登場した。生産量が減少すると下地、漆の工程も簡素になり粗野な感のある塗りとなった。 (文は平成5年柳田村発行の「合鹿椀」より) |
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■「合鹿」の地名について | |
(中 略) 「合鹿」についても、合は古訓にアハセテ、カナフ、コゾル(『類聚名義抄』)などの意味があり、「鹿」には麓・禄と音が通じ、その意にも用いられる。(白川静著『字通』)鹿櫨は轆轤と同義である。禄の声符は彖であり、キリ・ろくろきりの意味がある。これらから考えられる一つには「ろくろにかなふ」「ろくろにあはせる」「ろくろにこぞる」と読みとれる。木地師の仕事を彷彿させる言葉であると思う。 「麓」はふもと・やまもり、の意ある。「山林の木、衡鹿(こうろく・古代中国の官名之を守る)鹿は麓、苑囿(えんゆう・鳥獣を飼う園)をいう」すなわち、鹿は神事に必要な聖獣であり、中国文化投影もあるが、木地師の心をつたえる「鹿」であると推察する。とは言え、合鹿の名はどうして生れたかは解らないが、夫婦で「ろくろ」を挽き、椀作りに励む。その時、妻のろくろの綱を挽くカの配分を考え、夫は呼吸を合わせる。合鹿椀の素朴さと品格を生む秘密はここにあると思われる。くるまへんの轆轤ではないといえる。「鹿」は木の霊性を木地師の生活の中に感応して、継承されてきた。 瀬戸久雄 (文は「柳田歴史ものがたり」より) |
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