■鯨捕りの絵馬(藤波) | |
右の絵図は藤波にある神目神社所有の絵図で嘉永六年(1853年)、加賀藩第十三代藩主前田斉泰が能登巡見の途中、藤波の海浜で鯨捕りを見物した時の状景を描いたものです。 町指定文化財で当時の漁業風俗を知る資料として、きわめて貴重なものとされています。 (写真は「能都町史」第二巻から、文は町の広報「広報のと」N0.24より) |
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■鯨島の由来(波並) | |
浜新如は「この鯨は俺のもんや」というので、見ると鯨の頭にフンドシが一本掛けてあった。「縄のかわりに俺がはずして掛けたわい」と言い争ったが、和解して納屋に詰めてある肉は浜新如のもの、あとは在所のものとなり、切り開き、出ていた者全部で分けた。その肉は近郷近在十里四面に広がった。その鯨の大きさは三十三尋(約59b)あったということである。それから波並村はずれの島集落を「鯨島」というようになって、今でも伝えられている。 (文と写真は町の広報「広報のと」N0.24より) |
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■能都町史にみる鯨捕り | |
(文と写真は「能都町史」第五巻496、497頁より) |
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■能登町の宝物/日本古来の造船技術を今に伝える「ドウブネ」 | |
ドウブネの特徴は、その長い箱型の船体にあります。樹齢200年以上のスギ材を使用し、その内部をくりぬくという丸木ブネの技法を今に伝えています。大きさは約10m、昭和10年代には約13mまで大型化しました。 現存するドウブネは、現在遠島山公園と真脇遺跡公園に保存されており、真脇にあるドウブネは近年まで実際に網作業などに利用されていました。造船技術史上、また漁村の生業資料として貴重な文化財であるこのドウブネは、平成10年に国指定重要有形民俗文化財に指定されました。 (文と写真は町の広報「広報のと」N0.24より) |
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■ドウブネ概説 | |
網の形態が、台網(写3-31)から今日の定置網へと発達してきたのに対し、ドウブネは当初のものとほとんど変わらずに、その伝統を守り続けてきた。しかし、動力(機械)船の普及と杉材の入手が困難となったために、その建造は数年前に中止され、もはや消滅は時間の問題となっている (文は「能都町史」第二巻322頁より) |
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■ドウブネの構造 | |
構造的にはチョウ(丁)ないしシキ(敷)と呼ばれる五枚合わせの平らな船底部の上に、主要船材であるオモキ(コマキ)が付設され、更にナカバタ、ウワバタが乗る古い準構造船の造りである。 オモキは樹齢二百年以上も経た、胴回り五、六尺以上の杉を半割りして、その内部を割りぬくという丸木ブネの技法を今に伝える。また各材の接合には、漆をぬり、タタラを入れ、チキリで留める古い和船の技法を継承している。 ヘサキは水平距離八尺五寸に対し一尺あがり、トモは四寸に対し一尺、オモキのひらき(角度)は、七寸に対し一尺あがっている(図3-77)。ヘサキにはバンノシタと呼ぶ生活用具を入れる物置空間があり、トモにもシキリと呼ぶ空間がある。 甲板にはザイタ(船板)を用いず、カケクラという杉の丸太を渡し、横にはメザラ(丸太)を渡す。操法はトモロ一梃、ワキロニ梃、カイ四梃を用いて行う。ロは桜材で、鵜の首というロウデのニギリが曲がった独特なものである (文は「能都町史」第二巻327-328頁、図は同326頁より) |
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