能登町不動寺にある珪化木公園の近くに巴御前の塚があったと伝えられる。
平成24年に能登町エンデバーファンド21の助成を受けて、民有「歴史文化」資産の保存活用を考える会が木郎歴史古道復元プロジェクトの一環として「巴御前の塚跡」の石碑を建てた。

巴御前の塚跡 

巴御前
 巴は源義仲の養父だった木曽の豪族中原兼遠の娘で、義仲にとっては乳母子にあたります。成長した巴を「平家物語」は「いろ白く髪ながく容顔まことにすぐれたり。大太刀、強弓一人兵者なり」と評しています。また平家物語絵巻には、黛の粧いも美しく黒髪を背になびかせ、葦毛の愛馬「春風」に颯爽とまたがる美貌の女武将として描かれています。
 巴御前は、義仲の部将として倶利伽羅をはじめ数々の合戦で手柄をたてて夫を助け、念願の上洛を果たしました。しかし義仲が朝日将軍と呼ばれ、都で覇を唱えたのは、わずかな間でした。やがて鎌倉方の範頼、義経の軍勢に追われ、元暦元年(1184)一月、近江粟津ヶ原で三十年を一期として戦死しました。
 この戦いで巴は、「女なれば、いずこへもゆけ」と義仲に強く言われたので「殿に最後のいくさ、して見せ奉らん」と、馬を走らせ、敵方の名に聞こえた剛の者を打ち取ったと言う話も物語に出ています。その後、巴は鎧を脱ぎ捨て、東国の方へ落ちていったと伝えられています。
 

巴塚
 巴塚は北信越内に何か所かありますが、石川県内ではここのみです。尼となった巴は夫の菩提を弔うため、ゆかりの人びとを訪ねて諸方を行脚しましたが、能登にも義仲ゆかりのひと日置氏を名乗る地方武士がいたのです。先の「盛衰記」に、寿永二年(1183)、北陸道の平家軍を打ち破り、都入りした木曽勢の北国軍団の中に、日置氏の名がはっきり出ています。
 日置士は珠洲郡若山荘日置郷を本拠地とした土豪でした。義仲死後、北国軍団に加わっていた武士たちは、それぞれの国もとへ帰り、再び新田開発などの仕事に取り組んでいました。
 巴が去ったあと、日置の人びとは、仏門に入った御前の功徳をたたえると共に、来訪の足跡を大切に残したいとの強い願いから、巴塚を築くことにしました。珠洲往来のほとりに建てられた塚には、道行く人たちによって四季の草花が手向けられ、ずっと後の世まで親しまれてきたものと思われます。

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