■巴御前 | |
巴御前は、義仲の部将として倶利伽羅をはじめ数々の合戦で手柄をたてて夫を助け、念願の上洛を果たしました。しかし義仲が朝日将軍と呼ばれ、都で覇を唱えたのは、わずかな間でした。やがて鎌倉方の範頼、義経の軍勢に追われ、元暦元年(1184)一月、近江粟津ヶ原で三十年を一期として戦死しました。 この戦いで巴は、「女なれば、いずこへもゆけ」と義仲に強く言われたので「殿に最後のいくさ、して見せ奉らん」と、馬を走らせ、敵方の名に聞こえた剛の者を打ち取ったと言う話も物語に出ています。その後、巴は鎧を脱ぎ捨て、東国の方へ落ちていったと伝えられています。 |
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■巴塚 | |
日置士は珠洲郡若山荘日置郷を本拠地とした土豪でした。義仲死後、北国軍団に加わっていた武士たちは、それぞれの国もとへ帰り、再び新田開発などの仕事に取り組んでいました。 巴が去ったあと、日置の人びとは、仏門に入った御前の功徳をたたえると共に、来訪の足跡を大切に残したいとの強い願いから、巴塚を築くことにしました。珠洲往来のほとりに建てられた塚には、道行く人たちによって四季の草花が手向けられ、ずっと後の世まで親しまれてきたものと思われます。 |
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